海外編

バルト3国とSt.ペテルブルグ

新装なった成田第一ターミナルから SK984便にて15:50コペンハーゲンへ
20:40 BT166便にてリトアニア ビリニュス到着 バスで24:10 ホリデイ・インにチェックイン 翌朝9:00市内観光スタート!

リトアニアの簡単な歴史
1236年 リトアニア大公国成立。   1336年 ヨガイラ王、ポーランド王を兼ねる。    (リトアニア・ポーランド王国成立)
1569年 リヴォニア戦争によりポーランドと同盟(二民族一共和国)    1795年 第3次ポーランド分割により大部分がロシア領となる。    1918年 独立を宣言。    1920年 ソ連より独立。    1940年 ソ連に併合。 1990年2月 共和国最高会議選挙。    1990年3月 独立回復宣言。 1991年9月6日 ソ連国家評議会バルト三共和国の国家独立に関する決定を採択。    2001年5月 WTO加盟。    2004年3月 NATO加盟。    2004年5月 EU加盟。  
最下層労働者  給料 20000円/月くらい 中流(教師、警官)    43000円/月 失業率 5.2%(2004年) サービス業が50%を占める 一番高い丘(山はない)350m 天候が変わりやすく、晴れる日は年かでも非常に少ないそうです。

ラトピア  
リガ
バルト3国で最大の都市 3国のうち最初に独立運動。ドイツの影響が強い 神戸と姉妹都市
ラトピアの簡単な歴史
先住民族のリーヴ人が居住(リヴォニア) 13世紀 ドイツ騎士団によって征服される。 これ以降、ドイツ騎士団、リトアニア、ポーランド王国によって支配。 16世紀、リヴォニア戦争の後にこの地は分断され、南部はクールラント公国に。 17世紀にスウェーデン領となり、バルト帝国の一部 18世紀中に南北共にロシア帝国にはいる。

エストニア
人口130万人 うちタリン 1/4の40万人 2004年UE加盟 2008年ユーロ通貨予定
エストニアの簡単な歴史
1208年 エストニア人がドイツ人,スウェーデン,デンマーク人と戦う。 1227年  エストニア人の住む地域がリボニアと呼ばれる。 16世紀 バルト海の覇権をめぐり,ロシア,ポーランド(リトアニア),スウェーデン,デンマークが争う。 エストニアは,スウェーデン,ポーランド,デンマークにより三分割。 17世紀 エストニアがスウェーデン領に。 1700年 スウェーデンとロシアの間の大北方戦争。エストニアは帝政ロシア領に。 1918年2月24日 エストニア共和国の独立宣言 (エストニア独立記念日)。 1918年2月 ドイツ軍によるエストニア占領。 1918年11月  ソ連軍がエストニアに侵入し,エストニア独立戦争。 1919年6月23日 エストニア軍,ドイツ軍 に勝利。エストニア戦勝記念日に。 1920年2月2日 タルト平和条約。ソ連は,エストニア共和国を承認。 1940年8月 ソ連に併合される。 1941年 ドイツ軍によるエストニア占領 1944年 ソ連による再占領 1987年 歌う革命 1991年8月20日 独立回復 1994年8月30日 ロシア軍がエストニアの領土から撤退
   @ビリニュス(リトアニア) 34枚

   Aトラカイ城(リトアニア) 19枚

   B杉原千畝とカウナス旧市街 52枚

   Cリガ(ラトピア) 61枚

   Dタリン(エストニア) 56枚

   ESt.ペテルブルグ@エカテリーナ宮殿と夏の宮殿 90枚

   FSt.ペテルブルグAエルミタージュ美術館 81枚

   GSt.ペテルブルグB市街散策と運河クルーズそして帰国 61枚




      









ロシア
サンクトペテルブルグ、エカテリーナ宮殿、夏の宮殿、バレエの観賞、プシキン市、ヒョードル大帝、緑の柱の間、赤の柱の間、琥珀の間、アレクサンドル一世、トリトンの噴水、白鳥の湖、

エルミタージュ美術館(冬の宮殿)、エカテリーナ大帝が集めた絵、アレクサンドルの円柱、ピョーテルの謁見室、レンブラントの部屋、放蕩息子の帰宅、レノアの聖母マリア、レオナルド・ダビンチ「リッタのマドンナ」、ティッツィアーノ「改悛のマグダラのマリア」、レンブラント「ダナエ」、ラファエロの回廊、ラファエロ「コネスタビレのマドンナ」 ラファエロ「マドンナと髪無しヨセフ」 カラヴァッジョ「リュート弾き」ラファエロ「イルカ」ミケランジェロの「うずくまった男の子」ゴヤ「アントニア・サラテの肖像」、ルーベンス「大地と水の融合」モネ「庭の貴婦人」セザンヌ「たばこを飲む男」ヴァン・ゴッホ 「灌木」マチス ダンス、ピカソ「ギターとヴァイオリン」

聖イサク教会、デカブリスト広場、スパス・ナ・クローヴィ聖堂 有名な「血の教会」アレクサンドル2世、スマルタ、聖ニコライ聖堂、宮殿料理、ロシア最古の町(ノムゴロド公国)、

リトアニア
リトアニア ビリニュス、聖ペテロとパウロの教会、軍人バツアヌ、兵士たちの礼拝堂、リトアニア・ポーランド王国、 リヴォニア戦争によりポーランドと同盟、軍人バヌアツの紋章、主教座教会、聖カジミエルの礼拝堂、イタリアの名工ピエトロピュリテ、ケディミナス城、ケディミナスの丘、ヴィリニュスの町の景色、テレビタワー、ヴィリニュスの旧市街へピリエス通り、聖アンナ教会、夜明けの門、聖母マリアのイコンm

トラカイ城、ガルヴェニ湖、ゲディミナス大公によって建てられ、息子から孫のヴィタウタスに引き継がれる、ドイツ騎士団の侵略を防ぐ、ヴィタウタスはリトアニア公国を建国、対ロシアのため傭兵として雇ったカラメイ民族(クリミアの人)の典型的な三ツ窓、

カナウス、旧日本領事館、杉原千畝(すぎはらちふね)、手記「六千人の命のビザ」、ヴィエニベス広場、軍事博物館、ネムナス川河岸にあるヴィトータス教会、旧市街散策、ベルクーナスの家、カウナス城 、聖ゲオリグ教会、ベルナンディン修道院、聖ペテロパウロ大聖堂、十字架の丘、

ラトピア
リガ ・バルト3国で最大の都市、リヴォニア戦争、クールラント公国、アールヌーボー調の街へ、ユーゲントシュティール建築群、アルベルト通り、建築家ミーイル・アイゼンシュタインの建物、リガ城、リボニア騎士団、リガ大聖堂、ブラックヘルドのギルド、聖ペテロ教会 リーヴ広場 ・ブレーメン音楽隊の像、リガという街の名前の由来、「猫の家」、火薬塔、スウェーデン門、

エストニア(タリン)
歌の原、「人間の鎖」、指揮者「グスタス・エルネサフ」、エストニアの伝統的な楽器「コナル」、ピリタ、「ふとっちょマルガリータ」。トーンペアの丘、泣き続ける「リンダの像」、ウレミステ湖、トーンペア城、「のっぽのヘルマン」アレクサンドロネフスキー教会、「聖母マリア教会」ピックヤルク(長い足通り)、リュヒクヤルク(短い足通り)旧市庁舎広場(ラエコヤ広場)、聖オレフ教会の塔、「太っちょマルガリータ」「ナルバ城」  イワンゴロド城 







ホリデイ・インの前を散歩 今回、なぜこちらの方面を選んだのか・・ 家並みや建物ばかり見ていると、どれがなんなのか、解らなくなってしまうのに・・・ それでも敢てきたのは・・・
自分でもわからないのですが・・多分、昨年来た近くのクロアチア、スロベニアがとても良かったし、アドリア海とバルト海も似たようなものかな?・・・・・・・なんて漠然とした理由かも知れません。,市内観光スタート   先ずは聖ペテロとパウロの教会   1668年6月29日 聖パウロとペテロの日から7年かけて建てられた。
内装 紋章など全てが終ったのは、30年かけて軍人バツアヌよってでした。
下につり下がっている船は「ノアの箱船」 クリスタルで出来ています,バロック様式 骸骨は「死の象徴」 内部の彫刻は2000以上もあって、同じものはないそうです。
兵士たちの礼拝堂,,軍人バヌアツの紋章,9:37 ヴィリニュスの中心にあってシンボルともされる主教座教会「大聖堂」と鐘楼,各時代の様式を修理などによって採用している。,イタリアの彫刻家、画家により全てが描かれています。,聖カジミエルの礼拝堂 15世紀の聖人
3つの手を持つ銀で出来たカジミエルの祭壇 消しても消えなかったので、奇跡を起こす聖人とされた。,教会内部の作りは、イタリアの名工ピエトロピュリテ・・・って私は全くその人のことを知りませんでした,,とにかく、内装は目を見張るくらい綺麗で、そこにいるだけで気分がいいです。  ハイ!,外に出てもう一度鐘楼を53m。 基礎は13世紀の壁を利用したそうです。,16世紀の王宮を見に来たのですが、現在修復中で囲いがしてあり見えません。16世紀の状態に修復予定で、その模型です。 ,次はケディミナス城へ ケディミナスの丘を登ります。,ケディミナス塔 13世紀築 唯一残っている塔です。
キリスト教布教目的と称したドイツ騎士団に支配されたがケディミナスがそれを奪回。 彼はトラカイ城の作者でもあります。,ケディミナス塔からの景色です。,窓から,前後のヴィリニュスの街です。,,街のテレビタワー
1991年1月13日14人の非武装の人たちが、ソ連に殺された場所です。,ケディミナス城の建物の紋様,バスに戻ります。あぁ〜・・・やっぱり建物の写真は苦手だな〜,ヴィリニュスの旧市街へ ピリエス通りを散策。,ピリエスは「城」の意だそうです,,この通りの先端にかつては城壁の門があり、現在は旧市街のメインストリートとなっています。,この町で一番大きな建物はヴィリニュス大学(写真は撮りづらかったのでありません)年間300ユーロの授業料だそうです。,個性的で可愛い店が多いのは。
どこの旧市街でも似ていますね〜,聖アンナ教会
ヴィリニュスでは珍しいゴシック様式の教会。ファサードには33種のレンガを使用,,がれきの上に更に立てられてゆくので徐々に高くなりました。 その美しさからナポレオンは手のひらに載せてフランスに持ち帰りたいという逸話が会ったそうです。,そのまま歩いて夜明けの門へ。,夜明けの門の2階の部分 聖母マリアのイコンが・・
旧市街は1503年周囲3qの城壁が造られ、9コの門がありました。現在はここを含めて4コ,お天気は朝と違い、どんどん良くなってきました。
空が気持ちいい!,昼食へ向かいますガルヴェニ湖に浮かぶトラカイ城 湖の畔へ着いたとたん「美しい!」と感じました。,,,上はトラカイ城に大砲の弾が届く距離に建てられたもう一つの城
1321年ゲディミナス大公によって建てられ、息子から孫のヴィタウタスに引き継がれる。,外敵ドイツ騎士団の侵略を防ぐ軍事目的で造られました。,孫のヴィタウタスはリトアニア公国を建国,最初の建物は、兵士の宿舎、食料庫、馬小屋を飼っていたりした建物の部分,跳ね橋を渡ってメインのお城へ入ります。両サイドからの跳ね橋,1階  暖房用に火を焚く部屋
2階  大公と家族の部屋   会議室
3階  全て客室,大公の部屋にある絵画,会議室とシャンデリア,湖では日が当たっている短い時間を有効に、早速泳いでいます。,18世紀、対ロシアのため傭兵として雇ったカラメイ民族(クリミアの人)の典型的な三ツ窓の家並みです。,ホテルへ戻り、そばのスーパーマーケットへミネラルをーたーを買いに・・・,宿泊したホリデイ・インです。,翌朝、カナウスの旧日本領事館に寄り、リガ(ラトピアの首都)へ向かいます。,杉原千畝(すぎはらちふね)が住んでいた領事館。この門の前には沢山のユダヤ人が集まったのですね〜。,バスで杉原氏と奥さんが書いた手記「六千人の命のビザ」の一部朗読を聞きながら来ましたので、この家の中を拝見して、とても感慨深かった。下はその手記です。,杉原氏の肖像
このあと彼の生涯のVTRを見ました。,カナウスの街 ヴィエニベス広場近くの軍事博物館,ヴィエニベス(連合の意)広場
独立に際してなくなった無名兵士の墓 独立に活躍した著名人の像 自由の塔
ソ連時代にはここにレーニンの像が建っていたそうです。,1918年ソ連からの独立
1990年2回目の独立
このあとカウナスの旧市街を散策です。翌朝、カナウスの旧日本領事館に寄り、リガ(ラトピアの首都)へ向かいます。,杉原千畝(すぎはらちふね)が住んでいた領事館。この門の前には沢山のユダヤ人が集まったのですね〜。,バスで杉原氏と奥さんが書いた手記「六千人の命のビザ」の一部朗読を聞きながら来ましたので、この家の中を拝見して、とても感慨深かった。下はその手記です,杉原氏の肖像 このあと彼の生涯のVTRを見ました。,カナウスの街
ヴィエニベス広場近くの軍事博物館,ヴィエニベス(連合の意)広場 独立に際してなくなった無名兵士の墓 独立に活躍した著名人の像 自由の塔
ソ連時代にはここにレーニンの像が建っていたそうです。,1918年ソ連からの独立
1990年2回目の独立
このあとカウナスの旧市街を散策です。,カウナスを流れるネムナス川河岸にあるヴィトータス教会で下車ここから旧市街散策のスタート
ヴィトータス教会
1400年にタタール人との戦争に、勝利した記念に建てられたもの。空に映えてとても気持ちがいいです,歩いて市庁舎広場へ行きます,市庁舎広場の周辺には沢山の綺麗な建物が並んでいます。右の建物はベルクーナスの家,,別名「白鳥」と呼ばれる 1542年建立。18世紀修復でバロック調に
政治犯の牢屋、ロシア公爵の家になったりして、現在は結婚登記所として使われている,広場の周りには色々な博物館が
薬の博物館,上は郵便局の博物館下はイエズス教会
17〜18世紀 バロック
バスケット場としても使われたことがあります。,カウナス城
13世紀土市騎士団に対抗するために作られた。数々の戦争のため現在残っているのは、一部に城壁と塔が一つだけ。,カウナス城
のちにドイツに占領されるが、ヴィトータス大公により奪還 現在はインフォメーションセンターになっています。,カナウス城の裏側にある、聖ゲオリグ教会
古いゴシック様式です。,牧師さんが鍵をはずし入り口のドアを開けてくれました。中を見てびっくり。,ロシアに破壊された状態のままにおかれていました。パイプオルガンは剥がされ、柱なども傾いたままです。 このような教会は他にも沢山あるそうですが、資料が集まらずそのままらしいです。,聖ゲオルグ教会と棟続きのベルナンディン修道院の人たちが住む部分,1990年の独立を記念した十字架,少し離れた聖ペテロパウロ大聖堂へ歩いて・・,大聖堂の方から旧市庁舎広場を望む 大聖堂は修復中で外観は撮れませんでした。,聖ペテロパウロ大聖堂の中
15世紀. ここだけはロシア時代にも壊されていないそうです。表はゴシック内部はバロック、あちこちで修復中 下のパイプオルガンはゴシックとロマネスクが入り交じり,戴冠の祭壇
下(右の写真)はマリア,昼食です。レストランと食べ物 ジャガイモと真っ赤なスープ,昼食後、リガ(ラトピア)へ向かって出発。 途中十字架の丘へ寄ります。,大変な数の十字架が・・・・
その数はリトアニアの現在の人口よりも多いそうです。,ガイドの話では、リトアニア人は十字架がだいすきなんだそうだけど・・・
1993年にローマ法王もここを訪れているとのことです。,国境は何事もなく通過
ホテル「マクティム」へ到着 部屋の窓からずは、アールヌーボー調の街へ ユーゲントシュティール建築群 ・ドイツ語で「青春の様式」の意 ・19世紀後半から20世紀初頭にドイツに起こった様式,アルベルト通りには、建築家ミーイル・アイゼンシュタインの建物が数多くありました。 ・・って全然知らない人ですが。,当初は高級住宅街でしたが、現在は学校や大使館がほとんどだそうです,この町の建築群は、ユダヤ人、ロシア人の金持ちが依頼して作られたものだそうです。,,,リガ城13〜14世紀 リボニア騎士団と市民の戦いにおける騎士団の城
このときは市民が敗北 その後ポーランドなどの支配者などが居住。 シンプルな石造りです。,リガ散策
ゴシック調の建築が多い。・さてラトピアの国勢は・・女性大統領。・227万人(リトアニア358万人、エストニア132万人),歩いて市庁舎広場へ
・業率8.8% ・北海道の約80%の広さ(リトアニアより少し広い),リガ大聖堂 右は日本料理のお店,美しい建物
ブラックヘルドのギルド,ブラックヘルド→若い未婚の男性 ・ギルド→商工組合 ・1334年ギリシャ神話の4人の彫刻 ・2次大戦で破壊 ・1999年再築,聖ペテロ教会 ・13世紀建立 ・何度も破壊され18世紀再建築でほぼ完成,聖ペテロ教会内部 ・これだけ見てくると、どこの教会もこんがらがって、区別がつかなくなってきています。(;^_^Aアセッ,聖ペテロ教会
塔の高さ123m、72mまでエレベーターで上へ ・リガの街を展望,展望台を一周して写真を,,このあたりが目玉の旧市街かな,下へ降りてもう一度内部を,下へ降りてもう一度内部を,かつてここにリーゼネという川が流れていて、リガという街の名前の由来になりました・・・とさ,旧市街には沢山の通りがあり沢山の楽しい建築群があります。
もう一日じっくりと散策できれば良かったと痛感しました。,リーヴ広場の付近の家
逸話で有名な「猫の家」 ・書くと長くなるのでスミマセン 何かの本かインターネットで宜しくです。,火薬塔
かつての火薬保管場所 現ラトピア軍事博物館,続けて旧市街散策,街に残る唯一の城門 スウェーデン門をくぐり聖ヨハネ教会へ,3兄弟の家
一番上の兄の時代は窓税というのがあり、窓が一番小さく作られている,,再び大聖堂に戻りました。,大聖堂内部,様々な様式が混ざり合う,ステンドガラスが綺麗です,パイプ(6718本)オルガン ・1883年
今でも時々コンサートが開かれています,チョッピリ疲れてきたところで昼食に向かいます。,地下のレストランで,ラトピア風のロールキャベツがメインディッシュ
このあとは一路エストニアのタリンへ
18:15 タリンのホテル「オリンピア」へ到着終日、タリンの町散策・エストニア人口130万人・うちタリン 1/4の40万人 
2004年UE加盟 ・2008年ユーロ通貨予定
9:15 歌の原にて写真ストップ,5年に一度開かれる歌の祭典「会場」 ・1869年第1回目が開かれました。 ・1988年9月11日人口の1/3 30万人以上が集い、独立への思いを歌にした
これがバルト3国人口の1/4の600万人が一同に会して手を繋ぎ、「人間の鎖」を作り、独立を求めて歌を歌う,彫像はこの国の有名な指揮者「グスタス・エルネサフ」
ここではそれ以外にも沢山のイベントがあります。,近くで演奏されていたエストニアの伝統的な楽器「コナル」
道路の上で演奏をしてました。,胸にエストニアの宣伝
これからの観光国として力を入れているのでしょう,旧市街への途中、ピリタにて写真ストップ ・1980年、モスクワオリンピックの時にRegattaの会場に。 ・当時ソ連がこんなに美しく発展していると言うことをタリンを競技場とすることでアピールしたかった。・・・という現地ガイドの説明でした。,対岸にこれから向かう、タリン旧市街のパノラマ,旧市街入り口で下車 ・建物は「ふとっちょマルガリータ」と呼ばれる。 ・この名前は、1529年監獄に使われていた頃の、食事担当の女将さんに由来する,トーンペアの丘 ・古代の王カレフが眠るところ。・泣き続ける「リンダの像」 ・王の妻、夫の墓を、石を積んでト−ンペアの丘になる。 ・その石を足の上に落とし、痛みで泣き続ける。そばのウレミステ湖は涙の湖。,トーンペア城13世紀 ・エストニア人の砦のあったところに建てた騎士団の城
エカテリーナ2世が知事官邸として使うために現在の姿に。 ・今は、大統領官邸
右の写真の右の塔 ・トーンペア城の近くにある「のっぽのヘルマン」
ヴィリニュスの「大聖堂前」とともに「人間の鎖」の起点になったところ。,聖ロシア教会 アレクサンドロネフスキー教会。・旧市街に似合わない(ガイドの言葉)
山の手へ ・議員や大使官邸などのステイタスな家が並びます。,大聖堂 ・またの名「聖母マリア教会」 ・1219年デンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設 ・エストニアでもっとも古い教会 ・プロテスタント,街並みを山の手の高台へ,高台から下町を展望,エストニアの簡単な歴史
1208年 エストニア人がドイツ人,スウェーデン,デンマーク人と戦う。 1227年  エストニア人の住む地域がリボニアと呼ばれる。 16世紀 バルト海の覇権をめぐり,ロシア,ポーランド(リトアニア),スウェーデン,デンマークが争う。 エストニヤは,スウェーデン,ポーランド,デンマークにより三分割。,1918年2月24日 エストニア共和国の独立宣言 (エストニア独立記念日)。 1918年2月   ドイツ軍によるエストニア占領。 1918年11月ソ連軍がエストニアに侵入し,エストニア独立戦争。1919年6月23日 エストニア軍,ドイツ軍 に勝利。エストニア戦勝記念日に。 1920年2月2日 タルト平和条約。ソ連は,エストニア共和国を承認。,1940年8月 ソ連に併合される。 1941年 ドイツ軍によるエストニア占領 1944年 ソ連による再占領 1987年 歌う革命1991年8月20日 独立回復 1994年8月30日 ロシア軍がエストニアの領土から撤退,下町へ ピックヤルク(長い足通り)を下り,お店の看板も「長い足」の表示,距離をショートカットするために 今度はリュヒクヤルク(短い足通り)へ右折,町の中を散策しながら,楽しそうなお店が沢山並んでいます。,午後の自由時間にどう歩くか考えながら・・・,,旧市庁舎広場(ラエコヤ広場)へつきました。,広場に面する旧市庁舎と下はその他の家々,旧市庁舎のシンボルです,広場のレストラン街で昼食を。 ・左の人はレストランの呼び込み ・右の観光客は呼び込みに誘われて、一見のお店へ入ってゆきました。,食後、自由時間ですが、聖オレフ教会の塔に有料で上がれると言うことで、早速展望台へ
 町の風景,城壁 周囲2.35km 高さ15m
塔  当初64個 現在27個,バスを降りた「太っちょマルガリータ」が見えます。,その後町を散策 右は三人姉妹の家,残った時間を街の中をめぐる可愛い列車で・・・ まだ見ていなかった通りを見ながら,,タリン旧市内の散策を終了,翌朝、6月23日 第6日目 8:00 サンクトペテルブルグへ向かいバスで出発。 車窓から ,エストニアーロシア国境そばのナルバの町到着 ・国境に接した「ナルバ城」 ・予定外の見学です。
白い塔は当時の王ヘルマンにに由来して「のっぽのヘルマン」といわれています。,レーニン像は悪いことをした人として、城の庭の隅っこに置かれていました。
・13世紀デンマークの支配下のとき、ロシアとの国境を守るために立てられました。,対岸はロシアの側の城 イワンゴロド城 
このあと昼食後、出国とロシア入国 ・出国に30分 ・入国に相当かかると覚悟していましたが、係官に鼻薬を効かせたところかなりスムーズに通過。
・今までのことを考えると奇跡的だそうで・・・ロシアの現状を垣間見たような感じ・,一路サンクトペテルブルグへ
18:55 ホテル「グリバルチスカヤ」へ到着,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 名称         ,サンクトペテルブルグ滞在 ・今日はエカテリーナ宮殿と午後は夏の宮殿
夜はバレエの観賞・・・盛りだくさんになりそうです。
朝 7:45 ホテルを出発 ・エカテリーナ宮殿へ,昨日移動日から降り出した大雨が、出発時にも続いています。
ペテルブルグから車で40分ぐらいの、プシキン市へ・・・
詩人プシキンの町にエカテリーナ宮殿があります。,詩人プシキンの町にエカテリーナ宮殿があります。
エカテリーナ宮殿の門 ・ここへ来たとたん雨が止みました。 今回の旅行地区は天候が良い日が少なく、良く晴れるのは年間30日ぐらいだそうです
出迎えの楽団、お客様の顔を見てどこの国か判断し、その国の曲を演奏しながら迎えてくれます。勿論自分の国の曲も忘れません,今まではとてもラッキーだったのですが、ここでも続いているような・・・。優先入場ということですが、その優先のツァーがたくさんあるそうで・・・どこが優先なのか・・・それでも朝早く出てきたので、TOPに近い入場でした。 ,それにしても、豪華絢爛、それにとてつもなく大きくて広い建物です。
ヒョードル大帝がスウェーデンに勝ち、第2の夫人のために建てた,キンキラキン!!!
ドイツが占領退却時に破壊復元されたもの,エカテリーナ宮殿内へ
中央階段を登ったところ。 白壁の彫刻と有田焼が大変美しい   18世紀バロック,ダイニングルーム、緑の柱の間,赤の柱の間と肖像の間,セラミックのこれは暖炉?・・と天井・・・いずれも眩しいくらいの装飾です。,琥珀の間
ここは撮影禁止のため、絵はがきから取り込みました。完全に商魂の餌食になってしまいました。,絵画の間アレクサンドル一世の間? 段々訳が分らなくなってきました。,とにかく未完成の間だとか、沢山の部屋を見たけど、どこもスゴイ絢爛たるキンキラキンの部屋ばかり,他にも沢山撮ってきたのですが、もうメモと写真が一致ません。  宮殿を出たあとは廷内の散歩です。,エカテリア宮殿の庭,お風呂場と宮殿の裏側の姿,宮殿の外にある琥珀のアートショップで・・・原石と作品(宮殿内の修復で使われたあとのくずで作られているそうです。,今頃になって晴れてきました。もう少し早ければ、宮殿の正面の写真も映えていたはず〜 残念!!! もう一度撮りに行くには遠すぎました。,サンクトペテルブルグに戻り、昼食です。食事はピロシキとコケモモのジュース ・それに真っ赤な赤カブのスープ。   勿論メインディッシュは別に出ましたよ。 忘れたけど,さて、午後は市内にある夏の宮殿へ,入城予約時間までの間、宮殿の庭、噴水公園を散策します,,庭もキンキラキンですね〜これで宮殿内の様子も想像できそう
「大滝」,噴水の下から宮殿を望みます。,宮殿内の教会部分が見え隠れ,旧宮殿だそうです,,左はトリトンの噴水 ・海の神ネプチューンの息子トリトンが怪物(ロシアの敵スウェーデンを象徴)の口先を切り裂く様子 ・右はもみの木の噴水,チェスの山の滝,色々な人がいます。左は男の人の服装から結婚式から来たとも思えない・・・ 公園内をいつまでも巡っていました。
とにかくスリなどには気をつけましょう。,14時半入城予約でまた入り口の近く、主噴水のところへ戻ります。,さて、夏の宮殿内・・・
やっぱし・・,これだけ金ばかり見せられると・・・
少々食傷気味,,,玉座と紫がかった色合いを帯びたクリスタル,とにかく凄いな〜〜,もう部屋の名前は勘弁してくださいね〜,これはきっと絵画の間に違いない!,ハーブが幻想的に輝いていました,寝室です 当たり前ですよね〜  (;^_^Aアセッ,やっと終りました・・・・  ッていう感じでした
あ〜ぁ〜〜!!   砂漠や山や土塊の遺跡、大自然が,市の中心部へ行き夕食です。,今日はいくらのクレープが珍しい内容でした.,夕食後はバレエ観賞
「白鳥の湖」2時間半3幕です,本格的な作りの劇場
映画でよく見るのを初めてナマで見ました。 雰囲気バッチリ!!   ワクワクしました,ナマのバレエも初めてみました。,テレビで見るのとは全然違いました! とにかく2時間半、あっという間。,いつもだったら腰が痛くなってしまう、堅い座席も全く気にならず!腰って、気持ちの持ちようで痛まないのかとと思うほど・・・,素晴らしかったです,同行者全員が感動,そしてフィナーレ 最後は指揮者も挨拶,ホテル「グリバルチスカヤ」の玄関からまっすぐの方向とホテル,9:30 ホテル発 車窓から  「芸術アカデミー」 エジプトから買った、本物のスフィンクスだそうです。,10:10 エルミタージュ美術館(冬の宮殿)到着 五つのビルから出来ています。 エカテリーナ大帝が集めた絵が納められています。,宮殿広場にあるアレクサンドルの円柱 1834年,エルミタージュ美術館,左  旧海軍省 右 イサク聖堂と宮殿広場,今日は受付の人が特別親切で、10時半開場のところ、早めに入れてくれました。,中央階段 初めのうちはガラガラ。,いつもは通り過ぎるだけのところも、じっくりと見ることが出来たそうです。→→ガイドの話
 司令官の間と ピョーテルの謁見質,さすが冬の宮殿 ここでも豪華な部屋が続きます。 右はたしか紋章の間(間違えたらごめんなさいです),いくつもの部屋を通り過ぎましたが、まだ絵画の部屋に至っていません。,とにかくロシアの建物はバカでかすぎる・・・・・(^_^;),やっと絵画の部屋へ来たようです。沢山あり過ぎてメモと写真が一致したものだけ書くことにします。・・・スミマセン 何せ絵の素養がないもので  レンブラント「老女の肖像」レンブラント「赤い服の老人」「放蕩息子の帰宅」(;^_^Aアセッ,レンブラント「ダナエ」
右ティッツィアーノの「ダナエ,レオナルド・ダビンチ「リッタのマドンナ」  
レオナルド・ダヴィンチ「ブノワの聖母」(花を持つ聖母)  
ティッツィアーノ「改悛のマグダラのマリア」,ラファエロの回廊 ローマの画家によって複写された,,ラファエロl「聖母子像」(コネスタビルの聖母)  
ラファエロ「聖家族」(聖母子と髭の無い聖ヨセフ)
カラヴァッジョ「リュート弾き」,ロレンツォ・ロレンツェッティ(ラファエロの弟子)「イルカの上の死んだ少年」
ミケランジェロ「うずくまる少年」,上 孔雀石で作られた装飾品,ヴェラスケス「オリヴァレス伯爵の肖像」
ゴヤ「女優アントニア・サラテの肖像」
ゴヤ「犬を抱く婦人の肖像」,カノーヴァ「キューピッドとプシュケ」, ルーベンス「王女イサベラの侍女」
ルーベンス「バッカス」
ファンタン・ラトゥール「花と陶器の花瓶,ルーベンス「大地と水の融合」
 ルノワール「黒い服の女」
  ?,モ ネ「サンタドレスの庭の貴婦人」
シスレー「ヴィラヌーヴ・ラ・ガランヌ(セーヌ川岸の村)」,ロダン「永遠の春」EternalSpring
 セザンヌ「青い服の座る女性」
セザンヌ「煙草を吸う男」,ゴッホ「アルルの競技場」
ゴッホ「エテンの庭の思い出(アルルの女たち)」, ゴッホ「ライラックの灌木」
クロス「アッシジ近郊のサンタマリア・デリ・アンジェリの教会,マチスi「コリウール眺望」
マチス「ボール遊び」,マチス「音楽」
 マチス「ダンス」,マチス「青いブラウスの婦人像」
ピカソ「女性の頭部」
ピカソ「姉妹」,ピカソ「ヴェールの踊り」
上ピカソ「ドライアド(森の精)」
ピカソ「友情」,ピカソ「3人の女性」
ピカソ「裸婦」
ピカソ「楽器」,ピカソ「ギターとヴァイオリン」
フェルナン・レジ「絵葉書」
ルオー「キリストの頭部」,たしか、「ベラスケス、エルグレコ、ムニーニョ、ルーベンス」などの絵もあるはずですが・・・間違っていたら教えてくださいませ,タペストリーの廊下
コブラ織り フランス オランダ製だそうです,午後はサンクトペテルブルグ市街を散策です。サーモンの昼食をとり、午後は市街の散策です。
PM14:35 聖イサク教会まえにてバスを下車。 非常に大きい(人との大きさの違いを見てください) 円柱は花崗岩で出来、高さ101m ローマ、ロンドンに次ぎ世界で3番目に大きいそうだ。,ロシアの建物はまさに「大きいこことはいいことだ」といった趣です。
左は内部に壁にある絵画,建築にかかった年数は40年 ここの観光の目玉は天井,壁など周りが比較的地味な感じなので、天井の装飾の素晴らしさが一層目立ちます。,,聖イサク寺院から歩いてデカブリスト広場へ
青銅の騎士像
エカテリーナ大帝が作らせたもので、バルト海を奪取したことにちなんで、ヒョードルに敬意を表すと同時にドイツから来た自分の地位を確立するために建立した。,公園のベンチにはペットの熊がミルクを・・・ 大きくなったらどう飼うのかな〜
バスへ戻ります。,スパス・ナ・クローヴィ聖堂
有名な「血の教会」 なんとも多彩な色で目立っています。,1881年にアレクサンドル2世がテロに遭った場所に建てられ・・・,その場所が当時のままホゾンされています,内部は立錐の余地もないほど、壁画や彫刻で埋め尽くされていました・。,モザイクは天然の石ではなくガラスに顔料を混ぜた、スマルタというもので作られているそうです。,周り中のモザイクに圧倒されそうでした。,血の教会の裏の出口と隣の家,聖ニコライ聖堂で下車 外からだけの写真ストップです。,ロシアの建物にしては、わりとこぢんまりした聖堂です,この旅行での最後の晩餐は、「貴族の館」にて 宮殿料理をば・・・,大変天井が高くシャンデリアも豪華です。 みんなスーツケースから一張羅のおめかしをして、歩き方もいつもと違うみたい。,プロの演奏家がずっとピアノ演奏でムード満点。 ・私たちの参加者の中に音大の元ピアノの先生がいらして、競演や連弾・・・>大変盛り上がりました。
ところで食事の内容は・・・言わぬが花・・・でした。,さて旅行最終日 午前中、運河クルーズ
午後、サンクトペテルブルグ空港から、コペンハーゲン経由で帰国ということになります。,今まで観光したSt.ペテルブルグの町を、船上から見て行きます。,サミットが7月17日より行われるので、道路や建物の修復中が大変多い
ロシア正教教会 150カ所  ・カソリック 3カ所  ・プロテスタント 2カ所  ・モスク 1カ所,9世紀、バイキングがスラヴ人を制圧、
ノムゴロド(新しい町の意)を作る,当時人口30万人
ロシア最古の町(ノムゴロド公国),この町にあるただ一つのイスラムのドームだそうです。
13世紀 モンゴルに制圧される,旧夏の宮殿
15世紀 モスクワ大公国により制圧,帆船レストランと帆船ホテル
ロシア連邦 1883年 黒章 「双頭の鷲」に,国土 1708万平方q
ロシア人80% ・タタール人4% ・失業率7,6% ・貧困層が多い,貿易相手国 輸出
オランダ、ドイツ、ウクライナ
主に石油、天然ガス、
輸入 ドイツ15%、ウクライナ、中国、日本,どちらもエルミタージュ美術館
5コのビルがつながる。,ヒョードル大帝時代はドイツと仲が良かったそうです。
「レニングラード」から投票により「サンクトペテルブルグ」に変わる,「レイン グラード」といわれるくらい天候が悪いところだそうです。
晴天日 年間30日ぐらい。
だとすると今回の旅行は大変憑いていました。,これもエルミタージュ
大部分の人が郊外にセカンドハウスを持ち、土日には町がガラガラになるそうです。,,,,空港への車窓から
ここでこの旅行でのハプニング・・・・・ 今回の旅行の最後には「やっと帰国できた」といった感じの状況になってしまいました。リトアニアに到着後2日目に目が猛烈に痒くなり、4日目の朝には目がくっついて、手でこじ開けないと開かなくなり、その上、浸みるような感じのため目を長い間開けていられない状態。5日目にはついにエストニアのタリンで病院に駆け込むことに。とりあえず薬を処方して貰い、旅を続けましたが、最後まで、歩いているとき以外は目を閉じていないといられない状態が続きました。 成田へ着いたとたん楽になったのですが、どうやらあちらでは、ぼたん雪が降るように舞い「家の中まで入り込み掃除が大変」といっていたポプラの花粉によってアレルギーを起こしたようです。,そして帰国も、一日半遅れで28日真夜中の12時少し前にやっと我が家へたどり着いた有様でした。まず、サンクトペテルブルグの空港では、機材の故障で4時間遅れ、コペンハーゲンでは乗り継ぎに間に合わず、次の便を確保するのにワールドカップの影響らしく、キャンセル待ちがどの窓口も200〜500人も 結局、翌日の夕方発、しかも当初の成田直行ではなく北京経由ということで何とか予約を取りました。 中国はワールドカップに出場出来なかったので、それほど混雑がなかったようです。 そしてコペンハーゲンの宿は、どこのホテルも満杯で、6時間も交渉したあげくに、タクシーで高速道路を50分(60q)も走った場所で、地平線まで田園風景が広がる一軒宿。 スーツケースもカメラが入ったまま、他の便でどこかへ行ってしまったらしく、出て来なかったのです。。 そこへ翌日の午後4時半まで缶詰状態。もう、踏んだり蹴ったりです。
そして北京でのトランジットで又トラブルが・・・ SAS(スカンジナビア航空)が用意してくれたチケットは北京の空港税が支払われていないとかで、相手にしてくれず成田行きのJALに載せてくれないのです。 同じところを何度も(かなり遠い)たらい回しされたあげく、北京の JAL のスタッフに TEL をしてとにかく来て貰うことに。 やっとのことで搭乗券を発行してもらうことになったのですが・・・これで終らないのがいつもの中国。 係員が新米で、まるでパソコン教室をやっている状態。 搭乗券の発行を一人あたり4〜5分かけないと出てこない。 その後はもう乗り場まで全員走りっぱなし。 せっかく北京へ寄るなら八宝茶とヒマワリの種を買おうと思っていたのに、そんな時間は全くありません。 やっとのことで座席について、「これで日本へ帰れる」と思っていたのが・・・甘い考えでした。 北京ではここ連日管制塔が混乱状態で、発着が遅れ、35機も待機しているので「いつ発てるか解らない」状況。 それならゆっくりと買物が出来たのにぃ〜!!,結局2時間遅れで成田へ向かいました。 息子が成田へ迎えに来てくれていたのですが連絡が悪いため、昨日帰る予定の便に迎えに来たあげく、今日も成田へ着いたとき、まだ私たちの便は北京を発っていなかったため、4時間以上待ちぼうけ・・・ 顔を合わせたときには、ものすごい形相をしてました。 さて、肝心の旅行のお話ですが・・・どの国のどの町へ行っても、18〜19世紀の街並みばかり。 何々様式の家々が立ち並び、終いにはどの建物が何という名前の教会やら市庁舎だか、 もうごちゃごちゃに・・・ お陰でこの旅行記はチョッピリ自身がないのです。 


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