海外編

イエメンを訪ねて13日間

「扉を開けたら時代の違う世界に入ってしまった」・・・・
今でも残る「アラビアンナイトの世界」   夢の中の世界です
   @トランジットでドーハ(カタール) 37枚

   Aワーディダハル 69枚

   B城壁の町スラー 34枚

   C双子都市コウカバンとシバーム 38枚

   Dジャラーン平原 53枚

   E女の王様アルワの町「ジブラ」 49枚

   Fタイズ滞在 63枚

   G世界有数自由貿易港だったアデンへ 72枚

   Hムカッラの町 37枚

   I信じられない街並みワディドアン 37枚

   J岩山を囲むアルハジャレインの町 33枚

   K砂漠の摩天楼都市「シバーム」 30枚

   Lシバーム(サユーン)滞在 46枚

   Mシバーム市内散策 37枚

   N砂漠経由マーリブへ@ 64枚

   O砂漠経由マーリブへA 52枚

   Pシバの女王の都マーリブ 29枚

   Qサナアヘ 22枚

   Rサナア旧市街散策@ 29枚

   Sサナア旧市街散策A 37枚




      









イエメン
サナア、ジャンビア。シバ王国、ヒムヤル王国時代、 タイズ、アデン、アバーヤ、ワディ・ダハール、、ロックパレス、アル・カービール村、カートの葉、イマーム・イヤハヤ、アラビアンナイト

スーク、アル・オルザ村、

ムルワ、ホブス、サハゥーク、コウカバン、シバーム、双子都市、アル・ジャミ・アル・カビール、

ヤスハラ峠  ジャーラン平原、動物市場、一瘤牛、カート畑、段々畑、

女の王様アルワ、ジブラ、スレイヒ王朝の首都、クバット・ゾーム・モスク、ダール・アル・イッズ、アハマド・アル・ムッカラン、アルワモスク.、サイヤニ峠、カビール門、

タイズ、アナシャマ村、シャジャラトル・ガリーブ、 イヤ・フロス地域のヤフルース、サブル山、アルカハラ宮殿跡、ラスリー朝、アシュラ・フィーヤ・モスク、

ディムナ、香料の道の宿場町、乳香、アデン、アブダッラー・アイドルース・モスク、アブダッラー、 アデン・タンク、 アデンゲート、スチーマー・ポイント(タワーヒー)、

ムカッラ、アル・ウェイジ・シタデルとアル・コーフル・シタデル、スルタン・ガゥリブ、ハドラマウト座り、黒装束、ザンナ、フータ(インド式) マワズ、バルトシュエルシュア

フータ、らくだのゴマ搾り 、 ワディ・アラユーンズ、 サイード・ブックシャン道路、ビンラディン系列の会社、ザイード・ブックシャンの宮殿、ハイラ村のナツメヤシ

日干し煉瓦、シィーフ村 シャイハーン・ビン・アフマッド廟、アルハジャレン村、アリ・アッタース廟 スンニー派を広めた聖者

砂漠の摩天楼都市「シバーム」、サユーン地方独特の帽子、要塞都市、

スガーイ、カイティー朝のスルタン、日干し煉瓦、キャラバンルートの中心地、お茶・ギジル、ジャーム・ラシード・モスク

アフマド・ビン・イーサー廟、日干し煉瓦の製作、 タリム、アル・ムダール・モスク スンニー派の中心地、アル・カーフ家、

ビィナイフォン=カフワ、砂漠、ベドウィン(砂漠の遊牧民)、砂丘を越えて、ルブー・アル・ハリー砂漠、キンダ族→ベトウィン(遊牧民)、砂丘、

シャブワの遺跡、ハドラマウト王国の首都、ベドウィンのキャンプ地、

マーリブ、太陽の神殿、 月の神殿(アルシュ・ビルキス)、女王ピルキースはイスラエルのソロモン王に会い、シバ王国時代の街、

アルファルダ峠、ノアの箱船が流れ着き、そのまま岩になったと言われるアユブ山、、

サナア旧市街、統一イエメンの首都、

カートスーク、イエメン門、サルタ、ナン、

カタール
ドーハ、ダウ船、ドーハの悲劇







第1日目1月15日(日) ○成田→関空→ドーハ 関空7度 ドーハ17度  19:00 羽田集合 ・第2ターミナル 18番カウンター(国際便乗り継ぎ)集合 荷物はサナアまでスルー 航空券もサナアまで ・時間があるので空港で夕食
20:55 カタール航空4964便にて関空へ(出発予定時刻20:55) 22:10  関空着(到着予定時刻22:10) ・2F→4Fへ移動 Cカウンターで再度チェックイン,第2日目1月16日(月) 晴れ ドーハ17度 06:25  ドーハ着(到着予定時刻06:05) トランジットで6時間の待ち合わせ。 せっかくなのでドーハを散策することに。 07:00 イミグレーションへ 07:10〜07:15 入国手続き,空港の外に出てこれからどうするか考えたあげく、空港のタクシーと交渉。 2時間の予定で町を案内して貰うことになりました。,車窓からの写真です,小さな半島の国 海がすぐ目の前,さすが石油の輸出国。 ドバイほどではないと思いますが、大変綺麗な町造りです。,先ずはショッピングモールで下車。,とても素晴らしい建物,芸術的な設計・・・,朝早いのでガランとしていました,なんと、ショッピングモールの中に、大きなスケート場が・・・,お店の中は撮影禁止でしたが、今まで見たモールと比べたらとてつもなく大きいスーパーといった感じ。 歩く通路は幅3mぐらい、品物はものすごく豊富。 ほとんどが輸入品で、それぞれ輸入国別にコーナーが別れています。 たとえばバナナも鶏肉も5カ国ぐらいのコーナーに別れていてどこの産か一目瞭然。 ただサッと歩いただけでかなりの時間がかかってしまいました。,再び車に、港へ向かいます。,車窓から どの建築物も皆新品に見えました。,モスクだと思います。 凝った形です。,ダウ船と港です。 アラビアンナイトのシンドバットの冒険のモデルになったといわれるダウ船。 なんとなく夢があります,一つの船に船員が乗っていたので、行ってみました。,どうやらここで働いている人たちは、みな近くのジブチやソマリア、エチオピア、それにインドネシアなどからの出稼ぎの人たちだそうです。 石油大国の人々はここではいるはずもないか〜,,港の対岸にある新市街の景色です。,港での風景,港での風景,,,バカに大きな真珠貝のモニュメント。 真珠が取れるのかしら,タクシーの運転手が、30分ぐらいで砂漠の海が見られると言うことでそこへ行ってみることに。,旧市街らしき町を通りました。,人々もゆったりとした感じで、ゆとりのある生活をうかがい知るような感じを受けます。,交通整理のお巡りさんも、何となく手持ちぶさたのよう,住宅街?,独特な窓の建物,ドーハといえば、サッカーのことが思い浮かびます。 ちょっと寄って貰いました。,「ドーハの悲劇」の舞台になったサッカー場ではありませんが、いい思い出になりました。,町を抜けると砂漠が・・・,その砂漠には石油の象徴火を噴く煙突が立ち並んでいます。,大部時間がかかっているのに相変わらず砂漠が・・・ チョット不安になってきました。 南郊外のビーチへ向かうが、メサイードを過ぎた所であと5分で着くと言うが、海は遙かかなたにかすかに見えるだけ。,もう時間も来ているのに空港から30分以上来てしまっていたので、わめきちらすタクシーの運転手に、至急空港に戻るよう命令! 空港付近がかなり渋滞していましたが、やっと出国手続きに間に合いました。 さて、目的地イエメンへ向けて、Go!!!>1月16日(月) 晴れ サナア26度 13:40   カタール航空454便にてサナアへ(出発予定時刻13:00)・(2時間40分) 時差6時間 お酒の持ち込み問題なし
ホテルの窓から,空港でゲートを出たところには、こぶとりじいさんのように片方のほっぺたを大きくふくらませて、ジャンビア(シンドバッドが腹に付けていた刀のようなもの)を身につけた迎えがずらっと並んでいたのにびっくり。 まさに「扉を開けたら時代の違う世界に入ってしまった」感じでした。,ホテル
第3日目11月17日(火) 晴れ 昼間26度  朝晩は涼しくて上に羽織る洋服が必要なくらいです。 サナア郊外 150km モーベンピック 5星  昨夜はホテルで食事をとりました。,現地ガイド Mohammed Abdul Moghni
ロビーで ジャンビアを腹に納め・・・ まだこのあたりまでは、特別に儀礼的な正装で迎えに来たと思っていました,号車 Mohammad.Meliani 55才  3号車 Hashed 32才? すべてランドクルーザーの3台に分乗。 サナアの旧市街は、旅行最終日に散策することにして先ずはサナア郊外のいくつかの町を見に行きます。,08:30〜08:40 途中の町で写真ストップ ・イエメンの簡単な歴史 ・シバ王国時代(紀元前10世紀〜紀元前2世紀) ・ヒムヤル王国時代(紀元後2世紀〜紀元後5世紀) ・1839年 イギリスがアデンを占拠 ・1869年 スエズ運河開通,1962年 イエメン・アラブ共和国成立(北イエメン)→イエメン革命 ・1948年〜1962年    タイズが首都 ・1962年〜1990年    サナアが北イエメンの首都   アデンが南イエメンの首都,・1963年 アデンと保護領を統一した南アラビア連邦成立(南イエメン) ・1967年 イギリス軍撤退(1939年〜) ・1970年 イエメン人民民主共和国と改名     アラブ世界初の共産主義国家,窓に特徴があります。 ・1990年 南北統一 ・1994年 内戦  現在は比較的平穏,一定の年齢を過ぎると黒ではなく、こういった色のアバーヤを着ると言うことでした。
3〜5月と7〜9月が雨期、それ以外は乾期,2号車の運転手 運転に邪魔だが、初日の今日はジャンビアスタイル,3号車の運転手,・アル・カービール村からワディ・ダハールの目玉、ロックパレスの遠景 ワディとは「涸れた河」の意 渓谷に挟まれた川の部分で、伏流水が豊富 農作物にとって最良の環境です。,・アル・カービール村の散策(出発より21km) ・1975年には、ワディに高さ8mの鉄砲水が流れ、村の川沿いの家がすべて流される,・1962年以降 石の繋ぎにセメントが使われるようになる,女性はご主人と家族以外に素肌を見せない、ということでレストランでの食事などは、必ずついたてのようなもので家族全体を仕切ってしまい、個室状態にすることになります。,男性はむしろ写真好きで「ソラ!ソラ!」(写真の意)と言ってシャッターを押せとせがんできます。 別に何も求めてくるわけではないのですが。,少年たちもそばに来ては写真をせがみます,ドヒャ〜 子供たちまでジャンビアスタイルを誇示しています。 なんのために持っているのかと聞いたら・・・ 「勿論、人を殺すため!」といって笑っていました。,昔はそうだったらしいけど、鋭い刃のものは家にしまってあるそうで、今ではネクタイのようなものらしいです。,家を建築中で泥をこねて石と石の継ぎ目に使ったり壁に使用します。,色々と仕切っていました。 棟梁、と言ったところでしょうか・ 貫禄がにじむ顔でした。,カートの葉を車で販売。 軽い覚醒作用のある草本で、朝摘みの柔らかい葉を少しずつ次々に口に含み、エキスを水と一緒に飲み込みます。,習慣性はなく、ちょっと口に入れてみたが、渋く苦いのですぐに口から戻してしまいました。 この国の男性の70%が毎日やっているそうです。,アル・カービール村の中を歩く ・出窓  女性が訪問客から見えないように作られる,この国のドアは非常に個性的。 似たようなものを決して作らないようです。 窓の格子なんかも同じ家のなかでも、みんな違った形になったりしている場合が多い。,丸い塔の上に四角いオーバーハングの家。 そういえば東京のビルにもこんなの有ったっけ。,あちこちの窓から刺すような視線を感じます。,家の陰からも・・・・,ロックパレスの遠景B サナアの喧噪をを逃れて、週末に伏流水で緑豊かなこの地を訪れたらしい。,ロックパレスの遠景B サナアの喧噪をを逃れて、週末に伏流水で緑豊かなこの地を訪れたらしい。,09:12〜10:25 ロックパレスの見学(出発より22km) ・1786年に作られた西の部分と、1930年イマーム・イヤハヤが作った東の部分に分けられる,・岩を土台としてその部分には、くり抜いた穴(墓の跡)が見られる ・その土台の形に合わせて城を建ててあります(高さ50m),最上階では、カートパーティなどをして楽しんだのだろうな〜,ロックパレスの正面 下の建物の部分はかつての裁判所だった。 避暑に来ていても裁判とは・・・,入り口付近からの風景 標高は2400mです。,入り口付近からの風景A ズームアップ,半月窓 とてもきれいな部屋です。,半月窓 外からは判らなかったが、ステンのようなガラスを使用 壁に映る色香を楽しみながら・・・,とても趣向を凝らしています。,,この城にある二つの井戸の一つ 土台の岩をくりぬいて作ってあるそうです。 30m以上の深さだそうで、伏流水の恩恵です。,この部屋でカートパーティを?,ロックパレス最上階からの景色です ワディ(涸れ川の渓谷)であることがよく分ります。 山の上には警戒のための石造りの物見の塔が。,ワディの断崖の上下に家々が散らばっています。,まだ朝のうちで、これから観光客が沢山訪れてきます。,女性はある程度の年になると、真っ黒のアバーヤを着て目以外は出さなくなります。 子供のうちはそれをしないで済むためというのでしょうか、誰もが「まるでドレス!」といった出で立ちです。 見る方もあでやかで楽し,これからも出てきますが、ドレスで裸足・・・ なんて当たり前なんですね〜,,10:30 写真ストップ ・軍隊のロッククライミング訓練をしていました,10年前まで兵役の義務があったが今はないそうで,,・ワディ・ダハールを見下ろす高台へ来て写真ストップ,下を覗くのが怖い!!,今歩いてきたロックパレスが望めます,,ここに遊びに来ている地元の人たちもいました。 やはり女の子は皆ドレスですね〜,四駆のカーステレオで音楽を流し、運転手・ガイドがジャンビアダンスを踊り始めま,周りにいた人たちも集まって、楽しんでいました。,やはりジャンビア(刀)はこの国の人たちのシンボルなんですね。,興に乗って長いこと続きます。,ちゃんと切れるような刃が有るのをガイドが見せてくれました。,ジャンビアと少女たち,黒づくめのアバーヤを着た女性達がちょっと離れたところにいました。,普通はこういった女性はご主人と家族のため以外には絶対に写真を撮らせてくれません。 ,たまたまこの家族のご主人がジャンビアダンスに加わって楽しんでいたのが幸い!! 撮影の許可が下りたのです。,後にも先にもまともにとらせて貰ったのはこれきりでした。,最高の交流でした,一緒に記念撮影です このあと、スラーという町へ向かいますスーラに向かって出発。  車窓から。  運転手たちが午後に口に入れるためのカートを買うということでい途中の町で停車。,スークに集まった人々です。ここはあまり大きくなかったので下りて撮影はしませんでした,ワディの上や下を道路はアップダウンを繰り返し進みます。,何度も言うようですが、ワディ(涸れ川)は伏流水が豊富で作物にとっては理想的な地。 夏になると緑一色になるそうです。,カート畑。
冬の今時は私たちが見られるのは、ほとんどがカートの栽培。
どこへ行ってもカート畑で、イエメンの男性にとっては、野菜や他のものよりもカートが一番大事なのでは、と思ってしまうほどです。,車窓からの景色,広大なワディの中に入ってきました。,途中ちょっと変わった町の集落があり、フォトストップしました。,11:20〜11:22 写真ストップ(出発より44km)・アル・オルザ村の遠景
それにしてもイエメンの人たち・・・ 面白くて楽しい町造りですね。,ワディを走ります,前方に見える山には、スラーの後に訪れる双子都市、コウカバンとシバームが有ります。,11:50〜12:45 市壁に囲まれた町スーラの見学(出発より69km)(標高2680m)
大きな岩に張り付くように作られています。山頂にはかすかに物見の塔が見えます。,,町の外にはいくつかの杏の花が咲いていました。,かつて7つあった城門のうちの一つ。現在は4つが健在です。,城門の中には岩のむき出した路地と、その上に建てた石造りの家が林立しています。,町のもう一つの特徴は、ビルカ(ため池)
山岳地は井戸がほとんどありません
現在は水道が通っていますが、当時は雨水をためて使っていました。,ありゃ? 今でもビルカを利用している人がいるようです。 この溜め池まだ現役なのかしら,石造りの家は、とても面白い。石と石の間に泥をつなぎとして作られていたが、最近はコンクリートをつなぎにしているのもあるそうです。,スラーの町唯一のホテル。 泊って見たいような気もします。,この国の家の窓は本当に特徴があります。窓の格子はどれも同じではなく、どの部屋もほとんど似た構造なので、窓格子の柄で雰囲気が違うのかも知れませんね。,この町の観光は一番高いところにあるモスクまで行って、後は町中の狭い曲がりくねった道路を下りてくることになります。,岩山の上まで登ることも出来ますが、ここから下へ戻ることにしました。
上は一応軍事施設だそうですが、物見の塔と溜め池があり、景色もいいそうです。,少女が家を出てきて走り去った後に家の門から次々に山羊が出てきてその女性を追いかけてゆきました。
こちらでは家の1階部分が家畜の住まいになっています。,ロバも1階で住みます。,子供たちが何かのゲームをして遊んでいました。,この町は9世紀に作られたものですが、現在でも工法が変わっていません。 従って修理をしても昔からのものかどうか、判断が大変なのですが・・・,前の写真とこの写真の窓の作りは、一番古いものだそうです。
窓の奥行きが深いのは、女性が外から見られないで外を見るためだそうです。,曲がりくねった細い道が沢山ありますが、岩山とモスクを目当てにすれば楽に散策が出来ます。,有名な人が描いた絵を見ているような感じですね。,小さなスークがありました。 石で作った腕飾りやネックレスのようなものが主,これは現地の女性ではありません。私たちのうちの一人がお店から薦められて纏ったものです。やっぱり現地の人々とは風格が違うようです。,かって欲しくて何度もちょっかいをしてきた少女。 売りたいのだけどこちらへの興味も強く、話し相手をしていたら売ることをすっかり忘れてしまったようです。
少女の目を見てください。大きくてパッチリ、素晴らしい目をしています。 アラビックの少年少女は誰もこの素晴らしい目をしています。 写真を撮る度に感動しました。,おみせの周りにたむろしていた人たち
この後双子都市コウカバンとシバームへ行きます。コウカバンへ先に行きますが、その前にシバーム(砂漠の摩天楼のシバームと同名ですが違います)で昼食です。,朝食はどうしてもホテルになってしまいますが、その他は基本的に町の食堂などでするようにしました。 ナンを食べるところは、食堂の入り口にかまどがあり、そこで牛肉と野菜の鉄板鍋を客に見せながら料理を作っています,その奥に客室が。 ここはカートパーティをする部屋と同じ作りになった部屋。 壁に座椅子が並んでいます。,メインのナンと鉄板鍋 ナンは大きいサルタと小さい(といってもご覧の大きさです)ホブスがありこれはホブスの方,サハゥーク(ホブスにつけて食べる)→トマト・チーズ・にんにく・カルダモン・辛子,ナンを手でちぎりながら鉄板鍋やサハゥークを付けて食べます。 上手い!!!,食後コウカバンへ ワディを見渡せるところで写真ストップ。,ワディの左崖上にある町がコウカバンです。,崖縁に沿って家が建ち並んでいます。,荒野にポツンと咲く可憐な花,,コウカバン(二つの星という意)に到着。 崖下にあるシバームとは互いに助け合う双子都市,入り口はここ一つだけで崖の裏側に当たります。 山岳地イエメンでは、収穫物の豊富なシバームの穀倉地帯は周辺の部族にとって略奪したくなる土地でした。,外敵が容易に浸入出来ない作りになっています。 シバームの人たちが外敵に責められたときに、コウカバンに籠城して上から石を投げて外敵の侵入を防ぐ方法をとったのです。,町の門前
コウカバンの方は水、食料をシバームに依存することによってお互いを助け合うような双子都市になりました。,コーカバンの人口
現在800人程度 昔は1000の家がありましたが、かなり崩壊が進んでいます,町の一番奥は崖っぷちになっています。
・イマームの居城は、1962年エジプトの空爆で破壊されたそうです。,全景を合成しました。,下に見える町が姉妹都市シバーム 富裕な土地のため夏になると緑一色になります。,この近くにシバームの町から歩いて上ってくる道があり、地元の人たちは20分ぐらいかかる。,それにしても、良くもまぁこんな崖っぷちに家を建てるものですね。,もう一度雄大な眺めを,足下にカメレオンがいました。 さすがガイド目がいいです。,下の姉妹都市シバームです。 スーラ、コーカバン、シバームの三つの街は、9C頃から建設が始まりました,城壁には、シバ王国時代(紀元前10世紀〜紀元前2世紀)・ヒムヤル王国時代(紀元後2世紀〜紀元後5世紀)の文字(二つの時代は、同じ文字を使用)が書かれた石が使われているそうです,,,サナアのアル・ジャミ・アル・カビールと同じ作りのモスク,,崖の上には先ほど行ったコウカバンの町が見えます。 ここが登り口になります。,シバームの一番高いところから町を望み戻ります。,シバームの子供たち,やっぱり素晴らしい目をしています。,,床屋さんで,とてものんびりした町でした,夜の食事はサナアの町で。 大きなナン、サルタです。 大きいでしょ? 最高に美味しかったです朝晩は涼しい→上に羽織る洋服が必要 サナア→タイズ 283km 08:00    ホテル発 08:40〜08:45   写真ストップ(出発より38km) ・カボチャ+家,ここでイエメンの状況を ・イエメンの教育 6・3・3・4制度→高校までは無料(教科書代等を除く)  教育を受けてない人は32%程度,カボチャ畑で
イエメン平均子供4人,・ロバで畑を耕しています,・今日は終日、警察のエスコートあり  誘拐事件の後、政府の方針で観光客には、山岳地域ではエスコートがつくようになっています,09:00〜09:05 写真ストップ(出発より56km) ・ヤスハラ峠(標高2635m)  ジャーラン平原を見下ろします,サナアからヤスハラ峠までは山岳地でそこを越えるとジャアラーン平原に出る 09:25〜09:50 マアバルの水曜スークの見学(出発より76km),マァバルのスーク ヤスハラ峠〜マァバル間は前に人質事件が頻発したところだったためポリスのエスコートが着くようになったようです。,・動物市場 主に牛・羊・ロバが売られています,牛の背中には瘤があります,こちらは羊 珍しく女性が商売をしていました。,可愛いんだけど、買われたら食べられちゃうのかなぁ,後ろ足をあげさせて押すといやがっている羊も、簡単に歩いてしまいます。,イエメンは一般住民が銃を持つことが許可されています。 この姿の人たちもかなり見かけました。,,「ソラソラ(写真を撮ってくれ)」の声があちこちからかかります。 シャッターさえ押せば満足してくれるので、交流を深めるためどんどん撮りました。 あとで取捨選択させて貰いましたがf(^_^;,ニラを売っているのですが、後で食べてみると感じが少し違うようでした。 でもニラの味ですね,野菜スークの部分です,だんだん私たちの歩く方に人が群がってきて・・・ 沢山の人たちが私たちと一緒に歩く形になってしまいました。,もうそこにはちょっといられません そのまま四駆に乗り出発です。 車窓から,道路沿いではカート売りがビニール袋に入れて、車を呼び込んでいました。,車窓から 黒装束を見ると、知らずにシャッターを押しています。 私の目には違和感・・と言うよりも風景の中の存在感とても強いんですね。,10:45〜10:55 写真ストップ(出発より121km) ラクダが農作業を。,・カート畑 背が低いカート 挿し木で育つ カートは男性の70%、女性の20%が嗜みます 中学生以上はOK  カートを噛むと食欲が無くなるので痩せている・・・と言うけど一・二号車の運転手はとてもやせているとは思えないんだけどなー,車窓から 岩山のてっぺんには必ず家が建っていることが分ってきました。 「お山の大将」が好きな国民性なのかも・・・,11:20〜11:25  ヤリームの町中にて(出発より143km) ・ガイドが友達と会ったため、しばし停車,ヤリームの町・・車の周りを少し散策 ここでもう少しカートのお話を。 安い物は一束200ER(ジブラで売られていた物)〜3000ER,ヤリームの町 カート 525年頃、エチオピアから伝わる,今でもエチオピア・ソマリア・ジプチ・ケニア・サウジ(禁止されている)でも噛まれている,・平均収入$180→内15%程度をカートに使う,ヤリームの町を出発,ヤリームの街並みです,ジャラーン平原の典型的な農作地帯 山岳地の多いイエメンではこれほど大きい平原は珍しい,雑穀、トマト、ジャガイモなどが大規模に栽培されています。,夏になると緑一色になります。,ジャラーン平原を越えて山岳地帯へ入りました。 スマラ峠(標高2700m)で写真ストップです,今は種まきの時期のようです,段々畑の一番高いところから下までは、高低差が約1000mぐらい有るそうです。,雄大な風景です 残念ながら多少霧がかかッた状態でした,段々畑全景を合成してみました。,もう一つの方角です,12:07〜12:10  しばらく走って再び写真ストップ ・次の山間のだんだん畑の写真,こちらは急勾配で断崖に近い場所に作られています,怖くないのかな〜 こんな家には絶対に住みたくない〜,景色だけ見る分には抜群です,ちょっとした写真休憩の間にも、ジャンビアダンスを踊り出す運転手たち。 楽しく、面白いアラビアンナイトの国民性に幸あれ!,13:05〜14:03   イブの街にて昼食(出発より204km),小さいスーク 車窓から,町の食堂です。シバの女王に次ぐ、女の王様アルワの都 ”ジブラ”へ,ジブラ遠景 ・エジプトのファティーマ朝の支援を受けたスレイヒ王朝の首都になります。 11C〜12C,ジブラの町はワディから歩いて登るが、石畳の印象がとても強く残ります,エジプトの影響を受けたクバット・ゾーム・モスク,アルワの宮殿跡(ダール・アル・イッズ) スレイヒ王朝のアハマド・アル・ムッカランが才能を認め彼の妻アルワに国事を委ねまし,そしてアルワはシバの女王とともに、イエメンの二人の女王として歴史に名を残すことになります。 宮殿に隣接するアルワモスク,ジブラ観光の主目的である、アルワの墓を守るための「大モスク」の遠景です。 2本のミナレットがあります,メインの道路から一本左の狭い路地に入ります。 古い家並みが並んでいますが、何かとても寂しい道,この町に入る前から、軍人が一人着いてきてくれているので安心はしているのですが,・・・と思ったら、そのすぐ先がこの町の銀座のようなもの、すなわちこの町のスークがあったのです。 狭い路地に沢山の人たちと店がひしめき合っていました,早速その中の喫茶店(?)でお茶を飲むことに。,お茶と言ってもシャイ(チャイ)で甘みたっぷりの例のやつです。,店の前でのんびりたむろしている、おじさんでも裸足であるいているんです,スークブラを楽しみながら大モスクへ,11世紀時代のドアが現役で使われています。,スークの狭い路地を少し歩いて鈎型に曲がったところに大モスクがあ,礼拝の時間と言うことで中には信者以外は入れません。 靴脱ぎ場からの撮影はOK。,ここにはコーラン学校もあり、子供たちがコーランを唱和する声が聞こえるのですが、大人の人も分厚いコーランを一心に読んでいました。,礼拝が始まったばかりのようです。 1088年に建てられました  アルワ1137年に死去(92才),周りの通路をぐるっと回ってみます。 1995年原理主義者による爆破事件がおこる,いつの間にか信者がどんどん増えていました。 二つのミナレットがあって、ひとつは当時の建築(白い)だが、ひとつはここ25年の再建だそうです。,町が挟んでいるワディの反対側へ向かってジブラに別れを告げます。 アルワの宮殿とアルワモスクの遠景です。 この宮殿は365の部屋があったそうです。,手前はエジプトの影響を受けたクバット・ゾーム・モスク,ズームです,ジブラの町遠景,,そろそろ午後も深まって、口の中のカートの量が増え、瘤取り兄さんになってきました,軍人さんだってこの通り,ジブラから続くワディ(涸れ川渓谷)の景色です。,さて今日の目的地タイズに向かって出発 ・軍人の警備終了 但し、パトカーがエスコートしてくれます。,サイヤニ峠越え、下ると平原に・・・ 何となくわびしい夕方になってきました,車窓から この国の女性はとても働き者です,かなり大きな町,どうやらタイズに入ったようです。,17:15〜18:15  タイズ到着後スーク見学(出発より276,大きな町でとてもにぎやかです,カビール門から入ります,しばらくはスークブラを・・・ やはり黒装束が異彩を放ちます。,さすがイエメンで三番目に人口が多い町のスークです。,シラスか煮干しのように見えますが、こちらでは粉にして料理するそうです。,また「ソラソラ」,こちらはそーっと撮らせて貰います。,少しずつ人が少なくなってきました。,おみやげ屋さんに寄りました。 ジャンビア・・・買いたくても持って帰れそうにもない・・・,ん?  提灯か?,,ズームでごめんなさい,タイズの町の裏には3000m以上の山がそびえています。 明日の午後に四駆で途中まで上がることになっています。,人もまばらになってきました ホテルへ行きます。 明日はタイズで滞在です第5日目1月19日(木) 晴れ 昼間30度  タイズ 155km 08:00             ホテル発 08:25〜08:55 動物スークの見学(出発より13km),ローカルの羊はしっぽに肉が付いて垂れ下がっている,ソマリヤ種の羊、,山羊,ひとこぶ牛,歯を診て健康状態を,緑豊かな地域を走ります ・アカシア、パパイヤ、マンゴ(花が咲いている)、バナナ、グァバ、椰子(デーツが採れる),09:25〜09:35 アナシャマ村の市場を歩いて写真を・・・,沢山の人出です,やっぱり私たちが注目の的に・・・,色鮮やかな服を着た女性や顔を隠していない女性を多く見かけました,黒人も多いようでした,,とてもカラフルです,またもソラソラ(写真を撮って!)攻撃です。,,ドライブは続きます,来ているものもカラフルで、黒装束はこのあたりではほとんど見られませんでした,,,,,,10:00〜10:10       驚異の木の見学(出発より61km) 夏には青々とした大きな葉が付くそうです,イエメンではシャジャラトル・ガリーブと呼ばれる。 巨大です 日本で見た本の説明にバオバブの木と書いてありましたが明らかに違っていました。,もと来た道を戻り綺麗な花を見つけて写真ストップ 10:15〜10:25  (出発より65km),根本が丸く異常に太い植物です。→・Bottle Tree 100年以上の年も咲いているという説明でしたが、ホントかしら,荒野の所々にポツンと咲いています。,これは後日、サナア旧市街のホテルのロビーに飾ってあった写真です。 おそらく同じ花だと思いますが、これなら200〜300年の年と言われても納得しますね〜,11:00〜11:02  イヤ・フロス地域のヤフルース村へ立ち寄りました,ここでは説明が良く理解できなかったのでちょっと曖昧なコメントになります。 1453年〜1583年 タヒリーズ朝時代に建造  アフマッド・イブ・アラヤン(聖者)?の廟,ここを建てた聖者が貧しい人々に施しをしたので、駆け込み寺のような場所になったらしい。,いまでも貧しい人たちや身体障害者などが周りに住んでいて、物乞いをする人が多くいました。 ここへ来るのが判っていたら、スーツケースからもっとお菓子などを持つてくれば良かったと・・・,,タイズの町へ戻ります,,12:35〜13:25   タイズで昼食(出発より126km) こんがり焼けてお餅のようにふくらんだ熱いナン これもとても香ばしくていい味でした。,Nigghts Broast Restaurant フライドチキン、オクラなど イエメンでもオクラと言うそうです。 モロヘイヤも同じ発音でした,レストランに入っても「ソラソラ」の声が。,13:35〜13:45 食後はタイズの町を見下ろすサブル山へ,途中の景色のいいところでまず写真ストップです。,サブル山の標高は3000m 何かの本にノアの箱船が流れ着いた?と言う言い伝えがあると書いてありましたが、ここではあまり信じられていないようです。,14:00〜14:10        サブル山の中腹で写真ストップ(出発より137km),何度も書いていますが、なんであんなところに家を建てるのでしょうね〜,イエメンと言うところはどんなところにも家が建っているんです。,でも見る分にはとても楽しいかな?,信じられません!!,・・・・,(標高2200m)→ここで引き返します,,オーバーハングの岩が今にも崩れ落ちてきそうなのですが、その下には家々が沢山・・・,サブル山の中腹で写真ストップ アルカハラ宮殿跡を撮影,山を下りてアルカハラ宮殿跡へ そこからのタイズの町です。,この後このモスクへ行きます,13〜14世紀にラスリー朝の王が建てたアシュラ・フィーヤ・モスク 空の青とミナレットの白がとても美しい,,モスクを案内してくれた住人もジャンビアを誇示,モスクの内部です,,どこにも美しい紋様が掘られてありました。,明日はインド洋沿いのアデンに向かいますタイズの高台にあるホテルの部屋からの風景 きのう観光したアルカハラ宮殿跡がよく見えます,ホテルの部屋から タイズの町。,窓の外側は鏡になっていました。 女性が外から見えないようにするイエメンの習慣がここでも生かされているのでしょうか。,第6日目1月20日(金) 晴れ 20〜29度 蒸し暑い タイズ→アデン 180km 08:30 
 ホテル発 最初から最後まで私を乗せてくれた2号車の運転手。 優しいおじさんです,09:00〜09:45    ディムナにて金曜バザールの見学(出発より33km),やはり動物スークです,羊・山羊・牛・駱駝など,,ここではその場で動物を捌いて肉を売っていました。,,子供も一人前の仕事をします,ラクダは売り物ではないようです。,ラクダの持ち主のおじさん 女性陣はチップを払って乗せて貰い、記念写真。 立ち上がるときに振り落とされそうになっていました,商売成立。 沢山の人混みの中で堂々とお金の勘定をしていました。,動物スークから離れます。 この満艦飾をご覧ください。 黒装束アパーヤの下では、誰もがこういう派手なものを着飾っているそうです。 外側が黒ばかりの反動でしょうか。,ひょうたんの種類でしょう。 フタがカップを兼ねています。,BC11世紀頃の昔からイスラエルやエジプトの宗教儀式に不可欠の乳香です。 シバ王国時代は南アラビアでは香料の道の宿場町として大繁栄しました,野菜スークです。 にんじんや大根は小振りですが、生のままかじっても甘みが多く大変美味しいものです。 にんじん一本ぐらいは、すぐに食べられます。,私たちの周りには何十にも人垣が出来てしまいます・ 抜け出して外から撮りました。,食べ物スークの見学。,,,さて、アデンに向けて出,低い山が何重にも墨絵のように重なっていました。,南北イエメンに別れていた時代の、旧南北国境の街ラヒダを通過,旧南北国境線 この小高い山から先は旧南イエメンの領土で,0:30〜10:50  温泉(出発より74km)へ立ち寄ることにしました。,温泉と言ってものんびりしたものです。,ちょろちょろ流れる温泉の川や池、それに乗るとふわふわで柔らかく暖かい地面があちこちにあります。,温泉の施設 プールのようになっていて誰でもただで入れます,10分ほど足湯につかい、軽い足取りで再出発。,11:23  もう初日から数えると十数回目の検問(出発より119km) 非常に多いです,途中 アデンまで半砂漠の景色が続きます,,11:50〜12:00 運転手カートを買う(出発より151km),インド洋の半島に位置するアデンに入ります。,遠浅の海にはフラミンゴがいました。,12:25〜12:30        写真ストップ(出発より176km) ・フラミンゴの写真,海上道路(コーズ・ウェー)の途中,,アデンの町に入ったところで昼食です。 久しぶりの海鮮料理,それとパスタでした モロヘイヤ、エビフライがおいしい シシカバブもありました,昼食後、四駆の運転手と一時別れます。 3台の四駆はそのままムカッラヘ夜通しで走り続ける事になります。,明日は私たちは空路ムカッラヘ向かい、空港で待ち受ける運転手たちと再会の予定です。,スーツケースは、4WDに積み込む 1泊分のお泊まりセットを用意 小さめのバスに乗り換え、市内観光へ 先ずは漁港の小さな市場,名前の知らない魚が見られました。 ・アデンの人口80万人,昔から世界的国際港であったため、色々な人種(インド・中国・マレーシア・インドネシア・ジプチ)が住み、開放的な雰囲気があります,これは誰が見ても鮫ですね。 ・1837年にイギリスが最初にシエラ島へ上陸した 1939年から1967年までイギリスはアデンを植民地にします,フカヒレの干したものは中国に輸出だそうです。 1967年に南イエメンとして独立します。,セミエビ,クレーターと呼ばれる旧市街観光 犬や猫ではなく山羊がうろついていました。,4:14〜14:30   モスクの見学 ・アブダッラー・アイドルース・モスク,ハドラマウト出身のアブダッラーが、メッカ巡礼の帰りに立ち寄る ここにもお姫様ドレスに裸足の少女が・・・ そして自家用車に乗り込みました。,結局ここに住み着き、神秘主義を広めました 1488年モスクを建設 1508年ここで亡くなる モスクは見られないが、アブダッラーや家族の墓を見学,ミナレットはインドネシア様式 ・何回も破壊と修復を繰り返し、最近では1994年の内戦の際にも一部破壊されたそうです,14:35〜15:03   アデン・タンクの見学,1854年イギリスによって発見される,岩山の斜面を利用して17の貯水池が作られる 11が現存,ヒムルヤ王国時代の紀元後3世紀頃に作られたものだそうです→確証はないとのこと,アデンタンクからの旧市街 クレーターと呼ばれる,5:10〜15:20   アデンゲートの見学 ・15世紀後オスマン・トルコによって城壁とゲートが建設されました イギリス時代に修復,車窓から 途中 ロシア、イギリス、イエメン様式など色々な様式の建物が並んでいました。 ムスリム初の共産圏になったりイギリス統治下におかれたり、色々な時代を経てきたことが忍ばれます,15:30〜15:55        旧アデン客船港の見学,スチーマー・ポイント(タワーヒー) 植民地風の入国検査場,1869年のスエズ開通から1967年の南イエメン独立まで、世界有数の自由貿易港として栄えた 夏目漱石・森鴎外もここに立ち寄ったそうです 回りには旧免税店の看板が並びます,港の船ではもう瘤取り兄さんたちが横たわってカートの陶酔?に浸っています。,これは最高だよ! って言ったかどうか,エリザベス女王が1950年頃?新婚旅行で訪れた折りRegencyに宿泊→時間を聞いたがわからなかった。 そのため小ビックベンを建てた→そうですが・・・,ホテルへ向かう途中海岸沿いを走りました。
16:00〜16:05        写真ストップ,男女一緒に裸になれません。 少ないが女性専用のビーチもあるそうですが。 ひやー!ここでは黒い服で泳いでいます,男女一緒だとこういう形になるんですね,象の鼻と言われるところにホテルがあります,空港までマイクロバス09:10 空港着 イエメン航空433便にてムッカラへ(出発予定時刻10:30) 12:00    ムッカラ着,晴れ 27度→日差しは強いがアデンより過ごしやすいようです。 ムカッラの空港.,4WD3台が出迎え 三号車は故障のためまだアデンからの途中にいるそうで、別の4WDが迎えにでました。,12:45〜12:55 写真ストップ(出発より30km) ・アル・ウェイジ・シタデルとアル・コーフル・シタデル,19世紀に建設  関所・税関の役割をした建物です。,ムカッラの人口約40万人 ハドラマウト州の州都 街は、1135年に漁村が作られたのに始まる,黒装束に白い布を点けているのは女学生だそうです。 インド・インドネシア・マレーシアとの交易の影響で、アジア風サリーを着けている人が多い,AL-KHAIAMにて昼食(出発より32km),イエメンのレストランでは、必ずミネラルが出るので水に困る事はありませんでした。 ここのナンの味も素晴らしいもので、知らずにかなりの量を口に運んでいました。,海鮮グリルとモロヘイヤ ムラワがおいしい,とりあえずホテルへ向かいます。,14:15〜16:00  ホテルで休憩後 午後の観光へ出発,16:10〜16:15  旧市街遠景の写真ストップ ちょっぴり逆光,海岸沿いの道路は2年前南北統一15周年を記念して完成しました  南北統一記念日 5月22日(1990年) 1980年から旧市街を囲む防波堤が作られる,この街は、今までの街と違いシャイな人が多く、写真を撮ってくれと寄ってくる子供もほとんどいません カメラを向けると、笑いながらも逆に逃げてしまいます。,16:25〜16:30  スルタンの宮殿見学 1988年にカトンから遷都したスルタン・ガゥリブが建設 1967年まで使用しました 午前中の08:30〜12:00までしかオープンしていないので中は見られず残念,反対側からの宮殿 その後スルタンは、サウジアラビアに亡命 スルタンのアジア好みの影響でインド様式の宮殿 1994年の内戦時に、調度品等は盗まれました,新市街へ行きフォトストップ,1990年5月22日の南北統一記念して新市街が作られ、2年前にほぼ完成,ここは川ではなく新市街を作るときに掘られたもので、1〜2キロメートルだけしかないそうです。,新市街からの遠景 南イエメン時代はアルコールも飲むことが許可されましたが、1994年から又禁止,,旧市街へ向,17:05〜17:10   旧市街の海岸で写真ストップ ハドラマウト座りのおじさん 膝に引っかけることによって、紐が椅子の背もたれの役をしてくれます。,私も試してみたけど凄く楽ちんでした。 ここでは、布を使用して座っていますが、ハドラマウトしばり専用の紐が売られています,17:15〜19:20        旧市街の散策,女性のスークの見学 下着を売っているお店です。 ガイドが広げて見せてくれました。,黒装束の下はハデハデとは聞いていましたが・・・・ 絶句・・・・,女性の黒い服、実際には細かく別れていて、きちっとした名前があるんだそうです。 ワンピース→バルト ツーピース→シュエルシュア,男性のワンピース→ザンナ 男性の腰巻き フータ(インド式) マワズ,スークの子供たち,今日最後のお祈りの時間のようです。 アザーンが聞こえてきました。,ここは大きなモスクを取り囲むようにスークが出来ています。 男性はほとんど店をそのままにしてモスクへ行ってしまいます,同時に日は沈み夜の雰囲気に変わりました。 モスクと店の看板,旧市街の海へ戻り夜景を,夜の新市街,山の上には見張り塔兼灯台が見えます,歩いて昼食を食べたお店まで行き、チャイを飲んでホテルへ戻りました。 あすはいよいよシバームへ向かいますこの地方では男性は主に腰巻きフータ(インド式)、マワズを着用するのですが、運転手やガイドもそれに併せて、今日からはそのスタイルになってくれています。 詳しく見せようとしているうちに、剥ぎ合いにになってしまいました。,ムカッラ→サユーン 340km 07:35  ホテル発,インド洋とのお別れ。,北に向けて山岳地へ入ります。,08:25〜08:30  写真ストップ(出発より51km) ・らくだのゴマ搾り  ごま油を作ります。,山岳を登ってゆきます。 ワディ・アラユーンズ通過。,08:58〜09:10  写真ストップ(出発より71km)(標高610m),丘からワディ・アラユーンズを見下ろします,素晴らしい景色,だけどチョッピリ怖い!,出来るだけ崖に近づいてもう一度シャッターを,ワディの崖の上を走り続けます。,,放し飼いのラクダ,この辺の地名は、アヴゥドラガリブ,その後1時間ほど走り・・・,,10:15〜10:30  ガソリンスタンドにてトイレ休憩(出発より137km),出てすぐに検問があり、そこから左へ曲がると、遊牧民の地域に入ります。(標高1565m) サイード・ブックシャン道路,ビンラディン系列の会社がこの道路を造ったそうです(60kmで2年前) 遊牧民が使用している泉でフォトストップ。,ビンラディンは、ワディ・ドアン出身そのためアメリカは、この地域をテロリストの出身地というそうです,メインロードから少しはずれた、私たちのガイドとっておきの場所へ連れてきてくれました。 ・当初アフガニスタンにおいて、対ソ連のためにビンラディンを支援したのはアメリカで、義勇兵に対しチケットや武器の供与をしたのもアメリカ。 ソ連を追い出した後に手のひらを返し、ビンラディンとそれを支援したイエメン人を迫害したことで・・・,わっ!!!  凄い景色だ!! ・このためイエメン人はアメリカが嫌いな一要因となっているそうです。,あの大きな岩の上の家はおもちゃ?? ・イエメン援助は、ドイツ・オランダ・日本の順でおこなっている。目に見える学校・病院の援助もおこなっているため、これらの国は評判がいいらしい,ドヒャー! 1枚岩の上にれっきとした町がアルではないですか。
・しかしアメリカは、OIL会社への支援・投資だけで、自国の利益のためだけまたアメリカ・英国は、学校・病院など、民間への援助はないそうで・・,イエメンには「怖い」と言う文字はないのでしょうか。
・そのため、アメリカ人・英国人の観光客は皆無。 ガイドは、昨年1年間で10人ほどの英国人を見ただけといっていました。,撮っているこちらの方も怖々です。,ここはワディ・ドアン ワディ・ハドラマウトの一部 長さ110km 幅3km、深さ300m この谷には25万人が住んで居るということです。,ワディ・ドアンの蜂蜜は有名で、昔からサウジアラビアや湾岸諸国に輸出していました 従って昔から豊か→商売を広めるためにサウジアラビアや湾岸諸国に移住→故郷に立派な家を建て、そして道路も建設しているそうです,足下にある家々を岩の隙間から覗き込みました。
・ここ出身のサウジの富豪はいまでもこちらから輸入した特別な蜂蜜を食しています。,反対側の景色(ワディ・ドアン)がけの上を1qほど散策
・ここで運転手のお話 お茶目でいたずら好きの運転手達、何でも食べるが、するめや昆布はだめ おせんべ大好き 何かというとすぐジャンビアダンスを始める,,最後にもう一枚です。 ・誘拐で、対外国への身代金の要求などはなく、政府を困らせるだけが目的だそう,ワディ・ドアンの涸れ川へ下りてきました。,12:05〜12:12        写真ストップ(出発より196km) ビンラディン一族の町と言う説明でした。,ザイード・ブックシャンの宮殿 ビンラディンの奥さんの実家らしいが本当かどうかはちょっと??,今来た方角の景色です。,ズーム,,ハイラ村の遠景写真 12:22〜12:25,今居る場所の写真です。 これから・ハイラ村のナツメヤシの下で運転手たちによる昼食の準備に入ります。,,,ハイラ村の近景です,日干し煉瓦で作られた立派な家並みが続きます。,お金の余裕のある家は漆喰で化粧されています。 化粧された壁は雨にも比較的強いということでした。,この辺の人たちはアラビックというより、黒人系の人たちが目立ちました。,,崖下の道沿いに家が建ち並びます。,日干し煉瓦の家とはとても思えないほど美しい建物です。,右側がナツメヤシの林・・・ 車を林に中に乗り入れて昼食の準備に取りかかります。,運転手たちが手際よく食事の支度を始めました。,その時間を利用して、ナツメ林の奥を散策,その先はやはり畑とワディのがけっぷちにある家々がありました。,10分ほど歩いて食事に戻ります。,キュウリ、トマト、タマネギ+ツナのサラダ、パン ヨーグルト お茶 チーズ 野菜は水っぽく甘くてコクがあるので、とてもいけます。 最後はバナナや柑橘類のフルーツ。,昼食後、楽しい団らん、そして出発です。,13:45〜13:00  写真ストップ ・シィーフ村 シャイハーン・ビン・アフマッド廟 ・イスラム教の神秘主義が信仰されているため各村に聖者の廟がある,写真ストップ+運転手カートを買う 崖に沿って集落が何度も見られるのですが、このあたりは金持ちの部族が住むところ。 素晴らしく綺麗な家もかなりある。勿論日干し煉瓦です。,だんだんワディの幅が大きくなってきました。 これまでの支流から、ハドラマウトの主流に近づいていることになります,アメリカの西部劇に出てきそうな風景がどこまでも続きます。,,,アルハジャレン村が見えてきました,昨年できた道を登り、そこからアルハジャレン村の遠景写真を  ,ふたつのワディの間に建つ村→キャラバンルートの重要な場所だった 全景です,少しズーム,岩山の下の方かと思っていたら、やっぱりかなりのがけの上に建っていました。, アルハジャレン村のそばを走り抜けます。,それにしても見れば見るほど不思議な建物・・・,別方向から見るアルハジャレン村です。,15:00〜15:05  写真ストップ(出発より245km) ・アリ・アッタース廟 スンニー派を広めた聖者だそうです,ハドラマウト地区に入ってきました。,ついに見た!!! 楽しみにしていたとんがり帽子を被った黒装束!!! ホーキに跨ったら、完全に魔女!!,目の前でかなり大きな竜巻が・・,この帽子もすご〜〜く優雅です。 車は時速100キロで走り抜け、速度をゆるめてくれないのでまともな写真が撮れません。 前に、石を投げられて車に傷を付けられてしまったそうです。,,いよいよ砂漠の摩天楼「シバーム」が近づいてきました。長かった今日の陸路の旅路 どうやら目的地シバームに入りました,サユーン地方独特の帽子 この姿を見ていると、自分自身が絵本の中に入り込んでしまったような気持ちになってしまいます。,全ての面で時間がゆったりと流れている・・・ もっともっと長い時間この国に居たくなってしまいます,16:00〜16:10  写真ストップ(出発より315km)(標高665m) シバームです 道路の右側の町が新市街,シバーム旧市街の全景写真,,,,,シバーム新市街とその裏山,新市街の街並み,砂漠の摩天楼  ズームです,,新市街の町で車を降り、町の裏山の中腹まで登ります,16:20〜17:40   写真ストップ(標高710m) ・シバームの全景遠景写真  ここで夕陽を待ちます。,砂漠のように広いワディハドラマウトののなかに、忽然と建っているシバームの要塞の町です。,四角いピサの斜塔が林立?,,見ていて不思議な気持ちに襲われました,,宮殿,ワディハドラマウト,夏になると緑一色に・・・ 豊かな土地です,夕日に町が染まってきました,・・・・・・・,,,,黙ってみているだけでも、至福な時間・・・ どんどん過ぎてゆきます。,沈んでしまいました。,我に返りました。,感傷的になってしまった時間が終り、ホテルへ 明日はシバーム近郊タリムの街とシバーム市内観光です。タリムとサユーンの町の観光と シバームの旧城壁都市の中へ  121km サユーン朝散歩 泊ったホテル,朝の散策 ホテルの前の道路  大統領のポスター,08:00  ホテル発 08:15〜08:25 アフマド・ビン・イーサー廟の見学 ハドラマウトには偉人の廟が多い。,08:40〜08:45 ・日干し煉瓦を作っているところを見学 土に藁を混ぜ水を加えこねる,型枠を置き,そこへ泥を入れて並べ、天日で干す,出来上がった日干し煉瓦を出荷するところ 日干し煉瓦の家はコンクリートより涼しく快適だそうである。日干し煉瓦の家の方が価格が高い。 しかも雨で崩れるため1年に一回は補修、修理代がかかる。,使用方法は日干し煉瓦を横に寝かせて重ねて行く 下の方は幅が広く上に行くほど幅が狭く壁の厚さを薄くします。 石灰石で作られた漆喰は雨に強いので長持ちします。,車窓から こちらでは3種類の帽子が使用されているようです。,09:00〜09:25        タリムの町にて図書館の見学,1万5千冊の本,,一般の人によって普通に書かれたもので、斜めに書いたりしているけど、まるで本のように綺麗です,習字をする文字はアラビア文字と中国、日本などの漢字だけだそうです。,昔の世界地図 L型の黒い部分が紅海、大きく黒い部分がインド洋 日本は右端のところだそうです,旅行者や隊商のために作られた水飲み場「スガーイ」,スルタンは通行税をとり、こういった旅行者のためにこのスガーイの維持に努めたという,タリムの町を散策します。,小さなスーク,魚の干物,,ここに3種類の典型的な家がそろっていました。 左奥が作りかけのコンクリートの家 手前が雨で崩れかけた壁の日干し煉瓦の家 右の白い家は日干し煉瓦に漆喰を塗った家 この白い家は崩れかけた家より古い建物だそうです,10:05 アル・ムダール・モスク スンニー派の中心地,19世紀に建てられる ミナレット45m 東南アジア様式,メドレッサが併設され、東南アジアから多くのハドラマウト出身の子弟達が勉強,タリムの街 紀元後3世紀からの歴史があります アル・カーフ家がかつて所有していた40の宮殿 今はインドネシアに移住,アル・カーフ家は1967年まで続いたそうです,サユーンに戻ります。,イエメンの女性は本当に働き者,,(出発より63km) ・養蜂の見学,ハドラマウトの人たちがサウジアラビアで財をなしたといわれる蜂蜜が作られています。,その蜂蜜をお土産に買いましたが、水飴のようにコッテリして味は蜂蜜、素晴らしい味でした,10:50〜11:10  サユーンのハンディクラフト工房の見学(出発より76km) ・とんがり帽、ナツメヤシで作ったバスケットなど,ゴムタイヤのクラフトです,サユーンに戻り町の観光 11:10〜12:05        スルタンの元宮殿の見学(出発より77km),11世紀からこの地を支配したカシリー朝スルタンの宮殿 現在は博物館です。 日干し煉瓦で出来ているとは思えません,イエメンの地図 国の右半分を占めるワディハドラマウト 支流の中にあの町が乗っかった一枚岩のワディドアイがあるんですね〜,ワディハドラマウトの詳しい地図ですが、全く読めません,宮殿の窓から,屋上からサユーンの町,カシリー朝スルタン 1516年から1967年 完全にこの地を支配 宮殿は1827年に建てられるが崩壊 1926年に再建,5階建て 360の窓 100の部屋 6つの階段 スークから34mの高さ  日干し煉瓦で作られる,イスラム以前から、この地の民族間の問題を解決する場所 ミナレットはインド・東南アジア様式です,スークを見ながら昼食へ ・革命以前、イエメンは各スルタンによって21の地域に分かれて統治されていました,各地域でそれぞれ、独自のパスポート、通貨を発行していた,昼食 AL SHA’AB レストラン ・ハドラマウト焼きの羊とらくだ 昼食後はシバームの町の散策です車にてシバームへ 14:05〜14:10   (出発より97km) ・昨日撮った場所と反対方向からのシバームの遠景写真,,道路沿いにあった、水飲み場「スガーイ」,「スガーイ」,14:15〜15:45  シバームの徒歩観光 カイティー朝のスルタンの宮殿→ユネスコが修復,紀元前5世紀からの歴史 建物は500年以内,日干し煉瓦のため、壁の奥行きが厚く、ガラス窓替わりにカーテンを使用,あちこちの窓から、カーテンを開けて子供たちがこちらを覗きます。,5広場・500の家・5千人・5つのモスク(7つのモスクとも)があり・・・,そのことから5の付く街と呼ばれるそうです,やはり1階は家畜の部屋として使われています。,1984年に世界遺産 4〜8階建て  500の建物 5千人が住んでいます,雨が降るので、1年に1度は修復が必要とのこと,シバーム ・キャラバンルートの中心地として栄えました,隣からたりないものをちょっと借りたりするときは、バケツのケーブルカーでやり取りをします,扉には幾何学模様や、東アフリカや東南アジアの影響を受けたと思われる彫り物が・・・,ドアの横に手を入れる小さな窓があって、外出から戻るとそこからうち鍵を開ける・・・ 果たして鍵の役目をしているのか・・,ドアの彫り物のデザインは全て違います。,日干し煉瓦は、下の方ほど厚くなっているので、コンクリートと違い基礎に当たる一階の部分は斜線になります。,14:55〜15:30 家庭訪問することになりました,モハメッド・ハイサルさんの家です ここは3階の廊下,階段の部分 漆喰が丁寧に塗ってあり大変綺麗 日本と同じように靴を脱いで上がります,客間に案内されてチャイをご馳走になりました。 カートパーティなどの部屋として使われるそうです。,モハメッド・ハイサルさん(左) ・何年か前にTBSの取材を受けたことがあるそうです,20年以上サナアで暮らして2年前にサナアから戻ってきました,一人ずつ代る代る息子さんたちが、挨拶に出てきます。 長男さん,モハメッド・ハイサルさん ・水道関係の公務員 家族構成は両親と男の子3人、女の子2人 ・娘さん,窓からの景色 1〜2階 動物用の部屋→動物の臭いが強いので今は使用していない 3階   客間(ここでお茶・ギジルをごちそうになる)+小部屋,4階の家族の居間 4階   家族の居間=寝室 5階   女性用の客間→改装準備中 6階   屋上+長男の新婚用の部屋→今は使用していない,5階の部屋です,4階の部屋の窓から隣の家を,トイレ ・女性陣のみ奥さんと会うが、男性は会うことは許されませんでした。 綺麗な人だったそうです。,全部で10部屋だそうです。 あの摩天楼の一つでこれだけの部屋数しかないのですね。 ・屋上からの街並みです。,屋上からの景色,モハメッド・ハイサルさんの家は町の一番外側にあるので、ワディ・ハドラマウトが一望できます,お祈りに出かけるというモハメッド・ハイサルさんにお別れします。 途中ジャーム・ラシード・モスク、彼も来ていると思います。,車に戻ったら、1号車の運転手が既に瘤取り兄さんに・・・,夕食は持ち寄ったもので、ホテルで日本食パーティをしました 明日は砂漠経由でマーリブへ出発です。第10日目1月24日(火) 晴れ 朝は長袖 昼間は35度前後 サユーン→マーリブ 515km
05:00 ホテル発 05:55〜06:10  ビィナイフォン=カフワにてストップ(出発より67km) ・トイレ休憩+ベドゥインのエ,朝早くから、らくだの解体が始まっていました 食用になるんだそうです,今日は終日、ベドゥイン(1人)のエスコート車が付き 砂漠を道案内してくれることに  小銃も携帯,ハドラマウトの一番西でムカッラへ行く道とマーリブへ行く道に分かれます,朝早くは、いつももやっている感じ,ワディの岩山もほとんど無くなり・・・,砂漠が広がってきます 今回は舗装道路を通らず、砂漠の道を走り、シャブワ遺跡経由でマーリブへ向かうことに,舗装道路から砂漠へ入ったところで、一度停車,,,07:00〜07:15  車のAIR抜き(出発より135km) ・砂漠を走るためにタイヤのAIRを抜く,エア抜きの理由は「ラクダの足は柔らかくて砂漠を歩きやすいから、タイヤもそうする」という答えが戻ってきました。,案内人のベドウィン(砂漠の遊牧民)です,いざ!出発!!,先ずは平坦な道 どこを走ってもOK。 併走したり好きなように・・・まるでレースのよう,少しずつ砂山が見えてきました。,砂丘を越えて・・・ ナンチャッテ,他の車が見え隠れ・・・,かなりのスピードで、まるで運転手たちがレースを楽しんでいるよう,砂丘を登るときは、アクセルなんか無いのに、こちらも足に力が入ります。,だんだん気分が高揚してきました。,トラックがベドウィンの車です,もう最高!!,サハラ→アラビア語で砂漠の意味,ルブー・アル・ハリー砂漠,面積は世界で2番目、移動砂漠の面積も世界で2番目,イエメンには、4つの大きな民族が住んでいます,ガイドと運転手はマダハッジュ族。,この辺にはキンダ族→ベトウィン(遊牧民)と呼ばれる人たちが住んでいます,多くのベトウィンがサウジへ出稼ぎに出ているとのことでした,,08:00〜08:30  さばくに入って1時間ぐらいのところでストップ,先ずは写真を撮ります。,砂丘の風紋,,,感動の景色 夢中でシャッターを押します,あまり感動しすぎると、写真は失敗することが多くなってくるのは分っているのですが・・・,後の写真の選定に苦労するし・・,どれを見ても同じようだし・・・,なんて思いながらも、シャッターを押すことが辞められません   σ(^_^;)?,書きたいことが無くなった・・・,・・・・,砂漠の写真です  f(^_^;,,3号車がちょっとオーバーヒート気味,アデンからムカッラヘ空車で移動中、途中故障して一日遅れて到着した車で、あまり調子が良くないようです。,砂漠で故障はちょっと・・・・,,砂漠に咲く植物 ラクダが食べて水分を捕食?,スゴ〜ク背が高くなった気分,面白い!!,そうこうしているうちに、お茶目な運転手たちがいつものいたずらを始めました。,片っ端から私たちの足をすくって倒し、足を引っ張って砂丘を引きずり落とし始めたのです・,,,自力でなかなかはい上がれない女性陣は、肩に担いで上がってきます。 私たちとは体力が違いすぎます。,仕舞いには運転手たち同士でじゃれ合い・・,腰巻きがはがれて、パンツが丸見え,ベドウィンの車が先に出発です,,私たちの車も、わざわざ急な坂を下りました,,すご〜く楽しい時間でした,出発,ガソリンを入れるためとりあえず舗装道路まで30分ほどこのまま走ります。 次回も砂漠Aになります幹線道路が近づくに従って砂丘が少なくなってきました,野生ではないので、ラクダも人家から近いところにいます。,30人ぐらいの軍の駐屯ありました(写真不可) 荷台に砲を載せている車がそばにあって怖い 石油地帯を警備、守備するためだそうです ・石油、天然ガスとも1980年代に発掘が始まり、現在では輸出国になっています,舗装道路を走っている車が見えてきました。 08:57〜09:10 ガソリンを入れる(出発より209km)
09:35〜09:40 検問(出発より235km),ガソリンを入れた後、再びラフロードへ(出発より240km) 09:50〜10:00  岩塩鉱の見学,かつては重要な交易品だったそうですが・・・,今では見捨てられているそうです。,少し口に含んでみましたが、岩塩はとても美味しいですね。,10:02〜10:30 シャブワの遺跡の見学,用心のためガイドは銃を持参します。,シャブワの遺跡 B.C.5〜A.D.3世紀 ハドラマウト王国の首都になる イスラム以前に60の神殿(太陽&月)があった,A.D.3〜A.D.5世紀 シバ王国(シバ女王と同じ名前の国?)の首都になる 3万人のキンダ族が住んでいた A.D.5〜6世紀? アリオス・ガロス?率いるローマ軍が攻めるが落とせず,ガイドと運転手が銃で西部劇のマネを始めました。,,実弾が入って居るんです。 誤射したら・・・冷や冷やしてみていました。,その後実際に銃を撃って遊び始めま,かなり離れた標的ですが、2回ずつ撃って最後に運転手が見事標的に命中,他にも遺跡らしきものがいくつかあったのですが・・・,あまり重要でないか、それとも今までの説明の中に含まれているということなのか、そばまで行かずに遺跡巡りは終わり。,そしてまた、砂漠へ向かって出発です,今までとは少し景色が違ってきました,,,周りにかなりの岩山が見えます,,,,,,蜃気楼が・・・,11:20〜11:30  休憩(出発より291km) 3号車がオーバーヒート、ボンネットを開けて車を冷やす,10分後再び出発です,お昼近くなって気温が上がり、ボーッとしてきました,運転手たちは大丈夫なのだろうか,どれもが時速100キロを超えていて、スピードを落としません,ん?! 何か見える!!,ベドウィンのキャンプ地です。 表で働いているのはやはり女性でした,砂漠の一軒家,ベドウィンの移動テントを借り、昼食をすることに,又運転手たちが食事の支度です。 料理はワディドアイの時と同じ・・・ でも何回食べても美味しい料理です。,12:40〜14:00ベトウィンのテントで昼食(出発より363km) ・キュウリ、トマト、タマネギ+ツナのサラダ パン ヨーグルト お茶 チーズ コーランなのか歌か分らないが全員で合唱しながらやっています。,昼食後のトイレは山の上で,ベドウィンのトラックの荷台に載せられて山の上まで来ます。,この山の両脇に男女別れてトイレを済ませます。,ここの岩の色・・・ まるで宝石の原石のようなブルー・・・ 持って帰りたいけど重すぎ〜〜,山の上で暫く遊ぶことに・・・,気持ちがいいです,砂の上を歩いていると全員の靴が新品のようにピッカピカ 不思議ですね〜,私たちの四駆が迎えに来まし,テントのベドウィンに写真を撮らせて欲しいといったら、即座にこんな格好をしてくれました。,自分たちの得意な型を充分熟知しているようです。,砂漠の生物トカゲ 14:10    検問・舗装道路へ(出発より381km) 14:15〜14:35 検問(出発より391km) 装甲車がいました 14:35〜14:40  車のAIRを元に戻します(出発より391km) 一般道に出てマーリブへもう少し 検問があり 15:50 マーリブへ到着 〜16:00 そのまま遺跡へ、太陽の神殿(マハラム・ビルキス)見学(出発より497km) 石柱8本が印象的,太陽の神殿 紀元前7世紀頃に作られた神殿 月の神殿(BC10世紀)より規模が大きく(標高1085m)新しい,上の方は位の高い人だけが入れた場所  下には馬蹄形型に囲まれた広場があり、一般の人やキャラバンが礼拝する所,全体が鉄条網で囲まれている ,16:05〜16:30  月の神殿(アルシュ・ビルキス)の見学(出発より500km) 紀元前10世紀に作られた神殿→BARAN TAPLEとも呼ばれている,巨大な牛の石像もかつては置かれていた 広場を囲むように一般の人々が祈りを捧げる部屋もあった かつては天井もあったが、今ではすべて落ちてい,月に生け贄を捧げ、月に祈りを捧げる場所 かつてのキャラバンは、夜移動していたため、太陽より月をより重要視していた,上の神殿は、位の高い人だけが入れた場所  シバ王国時代に使われた古代南部アラビア文字が刻まれた石も(右下の石)  巨大な牛の石像もかつては置かれていた,BC10、富と美貌のシバの女王ピルキースはイスラエルのソロモン王に会いに行くときには、隊商の最後のラクダが3日目に宮殿の門を出発したと言う逸話がある,下にはまだ沢山の遺跡が埋まっているらしい,16:35〜16:40 古いマーリブの町(出発より509km) 今実際に見る建物は250年程度の歴史しかない(周囲一キロ)そうです,シバ王国時代の街は、地下に埋もれているようです  最盛期には5万人もの人口 シバの女王の宮殿もこの下にあると考えられていま,16:50 ホテル着(出発より515km)(標高1050m) 19:00〜 町にはレストランが無くホテル内で夕食 ・パスタ、ナシゴレン なぜかホテルのナンはまずい,第11日目1月25日(水)  晴れ 30度前後 サナア22度前後,朝の散策(ビルキス・ホテル 4星)で ,今日は、マーリブ→サナア 223km いよいよイエメンに初めて足を付けた町でもあり、最終の町サナアへ戻ります。,08:30 ホテル発,先ずはマーリブのダムへ パトカーのエスコートがついています。,08:50〜09:15   古いダム(出発より15km)北の水門跡→潅漑用水に使用 堰堤の幅680m、水門を含めると720mの幅 堰堤は高さ16m、幅20m,5億立方メートルの貯水量 紀元前8世紀頃に作られ、紀元後570年に崩壊した しかしそれ以前の第一期、それ以降の第三期ダムの遺構も見られ,自然の岩を利用した堰堤と対岸(南)の水門 キャラバンから徴収した税金でダムを建設、豊かな国だった,09:20〜09:25       南の水門下にて写真ストップ,湖跡の写真 ・岩には古代アラビア文字が刻まれている,09:30〜09:40 新ダムの見学(出発より19km) ・1980〜1986年にかけてUAEの援助で造られる 建設にはスイス・トルコの会社が関わる,7.5億$ ダムの広さ3.5? 39億立方メートルの貯水量 堰堤の下の幅は195m、上の幅は60m 長さ795m 雨期には、深いところで60mの水深 ,7.5億$ ダムの広さ3.5? 39億立方メートルの貯水量 堰堤の下の幅は195m、上の幅は60m 長さ795m 雨期には、深いところで60mの水深 ,パトカーエスコート終了 10:20 検問 10:30 検問 10分おきぐらいに検問がある 10:35   右手に砂丘が広がる サナアに向かいます最終目的地サナアヘ向かいます。 このあたりは誘拐事件が発生したり、政府の力が及ばない北部の部族の居住地が近いため、警備が厳しく検問も多い こういった戦車が前後をつかず離れずにエスコート?してくれているようでし,サナアヘの車窓からです。,徐々に高度を上げていきます。,エスコートが1人車に乗り込む 11:25  検問(出発より138km)(標高2030m) ・エスコート終了,アルファルダ峠通過 11:30〜11:40 トイレ休憩+記念写真(出発より143km) 暫く高度を走ります,11:45〜11:55    ガイドたちが仕入れるため、カート市場の見学(出発より145km),売られているカートです,中身を見せて貰う,北部部族の地域と言うことで、銃を肩に担いでいる人がとても多い,,,やはり「ソラソラ」攻撃が多いです,,12:20〜12:25 写真ストップ(出発より170km)(標高2200m) ・なんとノアの箱船が流れ着き、そのまま岩になったと言われるアユブ山・・・どこにあるか分りますか?,そうですここにありました。 漂着したときに船は胴体でまっぷたつに割れたのだそうです。,サナアの町は、ノアの息子シェムが最初に住み着いた人物だと言われている。 さてそのサナアが近づいてきま,12:28   今日はもう10回以上の検問(出発より175k,サナアの町に入りました。 人々も何となく都会人の雰囲気を持っています。,車窓から,そのままサナアの旧市街へ向かうことにしました。,綺麗な家並みが林立しています。,サナア旧市街で下車、徒歩で散策です 次回は旧サナア市街を サナア旧市街の観光(出発より217km),サナア旧市街の建物群は建物は1000年前と同じ様式でこの町そのものは450年ほどの歴史があります。,道路を挟んで両側に街並みが広がっています,この地区に住んでいる人たちは、現在では上流階級の人たちばかりのよう。,下に見えるドームは、ハマム 男女の入浴は時間によって入れ替わるそうです。 旧市街にはハマムが40個所,50のモスク,窓などの幾何学模様はどれも皆同じではありません。,石(主に1〜2階)と焼きレンガで作られています。,1962年までは、イマームを上に置く地方集権の首都,とても美しい街並みです。 1962年から1990年までは北イエメンの首都,,7,000の家、6万〜7万の人口,再び、「ソラ、ソラ」の声が戻ってくる,子供も大人も、だれも金や物を要求しないのが嬉しい,おへそに触られくすぐったがっていました,いつまでもこういう笑顔が見ていた,,これから見せていただく旧市街のホテルのオーナー(左),旧市街はブロックごとに分けられ、ブロックごとにモスク、畑を持つ。 この畑は1ブロックの人たちの共同のもので、それによって空間を作り出しています。,散策しながら旧市街のホテルの見学へ,ユダヤ系の紋様の建物だそうです。 イスラム以外の人たちも受け入れられているのですね。,不思議な雰囲気を持った町です。,子供たちが日本そっくりのチャンバラごっこを・・ 「シンドバットの冒険」と言った方が良いのかな?,ホテルに着きました。 街灯が点いていて素敵な感じ,ホテル一階のロビー あまり広くなく、すぐに階段があります,客室の入り口 所々で乳香を焚いています。,階段の踊り場に狭い入り口のトイレがあります。,客室です。 漆喰を使っているので涼しく感じました,ホテルの屋上へ上がってきまし,,,,,,,,この後旧市街のスークへ・・ サナア旧市街、スークの見学 40の品物によって、40の地域に分かれる,動物スークは別の場所に移転して、今現在ロバのスークだけが残っています,金物のスーク,ここはジャンビア専門地区,既にカートで頬が膨らんでます。,カートスーク 道路にも座って口に運んでいる人たちが沢山。 何となく退廃的な雰囲気を醸し出して・・・,途中、岩塩、スカーフ、Tシャツ等を買いました,イエメン門で暫く自由行動,門の上から旧市街の写真,,,17:07  ホテル着(出発より223km),19:40 ホテル発夕食へ AL-SHAIBANIレストラン 運転手達も含めさよならパーティー,ホテルからのサナア市夜景,朝、ホテルの部屋から 第12日目1月26日(木)  晴れ サナア→ドーハ→関空,別方向からのサナア旧市街 城壁から写真 紀元前2世紀頃から城壁ができ、オスマン・トルコ時代に修復,城壁 最近では1995年に修復,またイエメン門の前で写真ストップ,門の上から,,,昨日とは時間帯が違うので光の当たり方が違います。,スークのあたりが陰にならずよく見えました。,イエメン門の外の風景です。 旧市街では、煎ったコーヒーは手に入らなかったので、新市街でモカコーヒーを買いました。 250Gで1,12:00〜12:35 昼食 とても評判のいいと言われる一般の食堂へ連れ行って貰いま,お店の外で売っているナンを買い求め,このお店のサルタを注文します。,2階へ運んで貰いそこでナンに付けて食べます。,鉄板で焼いたサルタ、柔らかくて美味しい牛肉が最高!!,スパイスも色々あります。 オクラとモロヘイヤはとても美味しい,運転手たち あの体力を保つには私たちの何倍も食べます。,私たちも・・・・ 今までで一番のおいしさ。 一般の観光客にはお腹を痛めるといけないので、こういうところへは連れてこないとのこと。 私たちは今までに何度も外の食堂で食べてきたので連れてきてくれたそうです。,食べるのに忙しいのにあちこちから「ソラ、ソラ」,12:45〜14:25 ホテルで休憩+荷物整理,14:25  ホテル発 14:45  空港着,10年前は、ジャンビアを着けて飛行機にも乗れたが、最近では空港への持ち込みも禁止,ターミナルまでは、車の乗り入れは禁止 15:30   すべての手続き終了,17:20  カタール航空455便にてドーハへ(出発予定時刻16:50) 19:35    ドーハ着(到着予定時刻19:35) 19:35〜   トランジット,23:30 カタール航空820便にて関空へ(出発予定時刻23:10) イエメンを通して見てくださいまして有り難うございました,


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