海外編

バルカン半島 アドリア海沿岸の旅行

バルカン半島のアドリア海沿岸部の国、クロアチア、スロベニア、
ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ 周遊の旅行記です



   @ザグレブ 31枚

   Aブレッド湖とシュコフィア・ロカの町 スロベニア 28枚
   Bリュブリアナとポイストナ鍾乳洞 スロベニア 24枚

   Cイストラ半島周遊 クロアチア 28枚

   Dプリトヴィッツ国立公園 クロアチア 29枚

   Eザダール クロアチア 42枚

   Fスプリット クロアチア 39枚

   Gボスニア・ヘルツェゴビナの国境をまたいでコルチュラ島へ 50枚
   Hストンを見てドブロブニクへ 40枚

   Iドロブニク市内散策 74枚

   Jモンテネグロ 59枚




      









スロベニア
スロベニア、ブレッド湖、聖マリア教会、ブレッド島、ユーゴスラビア、アルプス、シュコフィア・ロカ、ロカ城

クロアチア
アドリア海沿岸、ザグレブ、クロアチア、チトー、ミゴライ、ベネチア時代、ベニス通り、イワン・シュトアビッチ、サンマルコ教会、ストーンゲート、イエラチッチ広場

リュブリアナ、ハプスブルグ、バロック、アールヌーボー様式、プレミューレン広場、ポイストナ

オパティア、リゾート、リゾート、イストラ半島、プーラ、円形闘技場、ヴェネチア共和国、ロヴィーニ、ポレッチ、ビザンツ、ウチカ山、ウィーン

プリトヴィッツェ

グルック島、ザダール、波のオルガン、ベネディクト修道院、シロカ通り、 トロギール、チオゴ島、カメルレンゴ

スプリット、ディオグラヌス帝、スフィンクス

ボスニア・ヘルツェゴビナ、Neum、アドリア海の真珠、コルチュラ島、モレシュカ、トミスラフ広場、マルコポーロ

ペリエシャツ半島、ストン

ピレ門、オノフリオの噴水、プラツァ通り、ドブロブニク

モンテネグロ
モンテネグロ、ボカ湾、コトル、ステファン島、ブドバ







オーストリア航空でウィーン経由ザグレブへ。 スロヴェニアをまわり、アドリア海を南下、 ドブロブニク3連泊でモンテネグロまで足をのばしました。,到着翌日、先ずはザグレブ市内観光です。 新市街、チトー広場にあるクロアチア国立劇場。  人口80万人,公園内にあるクロアチアの有名人の像。  25%が緑 公園17カ所,車窓からの新市街街並みです,中央墓地   ミゴライ(平和)墓地  1879年,ここのお墓は ローマ聖教、ギリシャ正教、ユダヤ、イスラムの 4つの宗教が同居している。  埋葬の仕方は土葬、火葬自由だそうです,この墓地の建築が素晴らしい。 古典主義、ルネッサンス様式がMIXしている,クロアチア初代大統領の墓もあります,紀に出来た北城門(クエアデット),だまし窓(17世紀)  アッシジ(イタリア)で知られるフランシスコ派のサンタクララという聖人にちなんだ建物。  裏庭にはちゃんとした窓があります,18世紀に作られた井戸。 当時市民の喉を潤した,ベニス通り、 ベネチア時代以後、ベニスの人々が住んでいました,ベニス通り,クロアチアの偉大な芸術家、 イワン・シュトアビッチが 1918〜36年に居住していた家,大統領官邸,サンマルコ教会。 市民の心の教会。 屋根に国旗の絵模様が・・・,首相官邸,ちょっとした高台から、ザグレブの町を望む,サンタ・カトリーナ教会へ,サンタ・カトリーナ教会の中。 17世紀、バロック建築。  はっきり言って、私には教会は全部同じに見えるんですが・・・,ストーンゲート(石の門)  18世紀、木の門が焼失、 この門の中の「マリアの絵」のみが残り、 奇跡として信者が絶えないそうです,ザグレブのへそといわれる、 イエラチッチ広場へ,イエラチッチ広場で自由時間。  市場を散策。 サクランボを買って食べたが美味しかった,イエラチッチ広場。 トラムが縦横無尽に市内を走る。,人形芝居を広場でやるらしく、 沢山の子供たちが集まっていた,かなりの人気な芸人たちらしい。  人がいっぱいになってしまい、 早々に引き上げることにしました,カテドラルの前にある城壁。 16世紀。  大きな時計だ,カテドラル  12世,カテドラルの中,カテドラルの中 二人の腕の形が十字架のよう,一日目の観光が終り、バスへ・・ カラフルな店が一体何を売っているのか・・ (後で判りましたが、ろうそくだそうです) これからスロベニアへ国境を越え、 ヨーロッパの緑の宝スロベニアへ。   田舎の典型的な景色です,翌朝、緑豊かな自然が残るブレッド湖へ、 まず目に付いたのが、ブレッド島の 聖マリア教会,手こぎボートでブレッド島へ。   15,6人乗りの舟を、たった一人で・・・ 結構早い!!  すごい力だ,島の一番高いところにある、 聖マリア教会へ,教会の鐘楼。 祭壇の前に紐が下がっていて、 それを引くと鐘が鳴る。  全員で代る代る鳴らしましたよ〜,教会の前から    ここで、簡単な近代史。 1918 オーストリア、ハンガリー帝国から独立。 ユーゴスラビア王国となる,教会の中から。   第2次大戦後イタリア、ドイツ独裁により 分割されるが、 1945チトー大統領により、 ユーゴスラビア連邦人民共和国(社会主義)を造る,ブレッド島から見たブレッド城。   1980チトー死後、各地が独立運動を始める,ブレッド島から戻り、バスでブレッド城へ。 1990年、最初にスロベニアがわずか 10日間の交戦で独立を獲得,ブレッド城からの眺めです。   ユーゴ軍はスロヴェニア人が 穏和な性格で、簡単に落ちると タカをくくっていたらしい。,天気が良ければ、アルプスの東端が見えたはず・・・   スロベニアは山国で地形を熟知、少ない浸入口を全て封鎖。 しかもいざとなると、強固な信念を持った国民だった,ブレッド島の聖マリア教会・・ シンとした静けさと緊張感があります。   ここにスロヴェニア共和国は名実ともに ユーゴ最初の独立国家を樹立,ブレッド城の中です,王様の部屋から・・・ 毎日、この眺めを独占していたんですね〜,下からブレッド城を・・・・,16世紀のドイツの雰囲気が残る、シュコフィア・ロカの街へ,いかにも、古めかしいドイツの・・・感じだなぁ,そう思うでしょ?   最初はAD830に南ドイツから来た司教が 街を造り、政治経済とも治めていたそうです,街を歩いていて、とても異国情緒を感じます。  ここ(山の手の部分)は1243年、 金持ちが造った街で主に三階建てばかり,家そのものはお店らしくないのですが、 右下のテントはコーヒーショップになっています,丘を登り、ロカ城へ,ロカ城,ロカ城からの景色です,そうそう、スロヴェニアの詳しい歴史は、 歴史書を読んでくださいね,ロカからブレッド湖に戻り、 ホテルへ戻る前にお名残の写真を・・・ 午前中の時とはまた少し違う雰囲気,夕方のブレッド島です,ブレッド城も目に焼き付けました,ホテルですが・・・ どうせならブレッド湖半にしてくれればなァ・・・ ここの部屋からの景色は 「道路と目の前の木」だけでした50qほど離れた、スロベニアの首都リュブリアナを散策。 先ずはリュブリアナ城。 12C スパンハイムが建てる。 14C ハプスブルグ家が統治,リュブリアナ城からの景色。  19世紀まで住んでいました。 1905 市が改修、結婚式場、市民の憩いの場となっています。,リュブリアナの中心街へ。 人口33万人。 バロックの街として知られています。 2000年前、ローマの都市でもあった,13C,15Cに地震、 それと、16C オスマントルコの攻撃により破壊,ピンク色の建物はフランシスコ教会。 彫刻が素晴らしい。  緑色のビルは「アールヌーボー様式」だそうです,プレミューレン広場、 旧市街と結ぶ三本橋。 人があふれていました,リュブリアナ大聖堂の入り口。  立体的なドア,リュブリアナ大聖堂の中です。  キンキラキンですね〜,祭壇近くの出入り口。  下にいる人がキリストで、 上の面々が歴代の司教だそうです。,街を暫く散策。 建物の壁の色合い、 すごくいいと思いませんか?,私が大好きな色なんで〜す,市庁舎のなか,広場に戻って自由時間。 街のシンボルとなる橋 名前は、ずばり「龍の橋」だそうです,オープンマーケットを散策します,ガラス製品がきれいに並べられて、 売られていました。 ここで現地ガイドの話を少し,スロヴェニア  フィンランドに次いで緑が多く、 スラヴ人は6世紀末〜16世紀末まで ドイツ系の人の奴隷として扱われて いたそうです。,昼食後、ヨーロッパで指折りの大きいポイストナ鍾乳洞へ,トロッコで2q入り、1q歩き、 又トロッコで帰ってくるコースです,常に8℃だそうです。 しばらくは鍾乳洞の中を、 お楽しみ下さい,,,,,国境をあっさりと越えて、再びクロアチアへ。アドリア海北部のリゾート地、オパティア,アドリア海北部リゾート、オパティア、 ホテルから。   ここでは、部屋が横向きでオーシャンビューならず、残念 朝早く、押っ取り刀で廊下鳶・・・やっとある廊下の突き当たりを見つけて、サンライズをゲット。 と・・・肝心の太陽サマが顔を見せてくれず、水面の光のみでした,プーラのお話から。  BC177ローマ人が居住。 当初トリエステと言う名でした。 14C当時6000人の市民がいましたが、ヴェネチア共和国の人が多くのものを持ち去り、1797には160人になってしまう,これが我が部屋からの景色。  1800〜1918ハプスブルグ家(オーストリア)がこのプーラを治める。  〜1947イタリア人が多くなった,さて、今日は日帰りでイストラ半島周遊です,プーラ。BC177ローマ人が居住。 当初トリエステと言う名でした。  道路と建物を造り(ブラビア通り)衛兵が沢山いた 2000年前に立てられた、ローマ円形闘技場,ヴェネチア共和国の人が多くのものを持ち去り、1797には160人になってしまう,15〜17世紀ペストなどが流行。 1800〜1918ハプスブルグ家(オーストリア)がこのプーラを治める。   〜1947イタリア人が多くなっ,観客席からは海が見えます。   今でもイタリア語とクロアチア語がMix。 イタリアの影響が多い街だそうです,私の方が、かっこいいだワン!  写真を撮っているところを、横撮りさせて貰いました,ローマ時代の凱旋門です,イストラ半島、次の街、ロヴィーニへ,ロヴィーニ。 18Cまでは島だった,家の外はすぐ海。  16〜18C、ペストが流行したとき、 それを逃れて沢山の人々が ロヴィーニに集まったそうです。,市街は当時のまま。  細い道での坂道。    19Cにはタバコ工業、漁業、観光として栄える,どの道も、上り詰めると大聖堂に至る,古めかしい家ばかりですが、きっと中は全く現代的に改修しているのでしょうね。  見てみたかったなぁ,一番高いところに聖エウフェミア教会が。   ここで急に雨が降り出し、慌てて戻ることに。  石畳の坂道は滑りそうで怖かった,イストラ半島次の街へ行く途中、フィヨルドが見えるところで、トイレ休憩,フィヨルドの最深部。  雨が強く降ってきた,ポレチの街に到着。  大雨の中観光に,エウフラシウス聖堂の中。  ここは、キリスト教初期の貴重な建物として、 世界遺産に,エウフラシウス聖堂   ビザンツ式モザイクで、黄金に輝き、 精巧な石膏細工はとても美しい。,道が広くきれいなのは、 二度にわたる地震の被害によるものです。 特に1945年には75%が倒壊しました,今日の観光が終了すると同時に、やっと雨が止んでくれました。   なんてこったい!・・・です。,オパティアに戻り、 夕食後、海岸沿いへ散歩に出ました。  ウチカ山とアドリア海に恵まれて 気候もとても良いところです。,リゾートとともに療養地としても、 オーストリア、イタリアの金持ちが多く 土地を所有しているそうです。,タイミング良く花火が!  1873ウィーンから電車がひかれ 有名人が沢山来ているそうです,海に突き出たところの 別荘風の家の前で、 吹奏楽団が、カルメンなど ポピュラーな曲を演奏していた。  そばではワインがグラスで売られていました。 勿論、下戸な私は・・・,オパティアからプリトヴィッツェ国立公園までの 素晴らしい、車窓からの景色です。1740年マリアテレージアが 造った街と言われる、バガール   煙突が250m?・・・25mの聞き間違えかも,小さな入り江に掴まるようにして、家々が・・・,いいけしきです。,親子のような舟,ここからしばらくは、 次々に現れる海岸線の素晴らしい景色を・・・  全て車窓からの写真なので、 ガラス写りがあります,,,,湖ではありません。   アドリア海なんです,グルック島  岩肌がむき出しになっているのは、 強風ゴーラのためだそうです,,センヤでトイレ休憩,Vratonik峠(標高700m)を越え、リカ地方。  クロアチア独立後に、 1995までクロアチア内で独立宣言した、セルビア人共和国との激戦地だったところです。   まだ傷跡が残っていました,プリトヴィッツ国立公園内で昼食後、 湖園内の散策です。   素晴らしい湖でしょ?,シャッターを押しすぎて、厳選したのですが、 アングルがダブっているかも知れません,言葉はいらないですよね〜,,,,,,水面が判らないくらい透き通っていました。,,,,,,石灰華が作り出した自然は本当に素晴らしいものでした,ハイキングが終り、船着き場で現地の民謡を・・,プリトヴィッツェのホテルを出発。 セルビア人との激しい内戦のあったリカ地方、 ノヴィグラッドを通る,国のほとんどを占める、 石灰岩の山を越えてザダールへ,ザダールは、世界一次大戦でも激しい戦いが。 第二次大戦で、イタリア人が入り込む,その後連合軍がイタリア人を攻めたため、 ザダールの街は、ひどく破壊された。 クロアチア独立戦争でも戦いの中心になって しまうことになる,ザダールの町です,キングシティ(王国の街)とも言われ、 ローマ、ベネチア、クロアチア各王国に支配され、 城壁に囲まれた街(旧市街)を形成。,旧市街へ行く前に、まず波のオルガンへ。 ・・なんとパイプオルガンのような複雑な音楽が、 下から聞こえてきた。  単純な音ではないのです,港の下にパイプを配し、 穴を付けて波の高低の度に 色々な音を出します。 上げ潮、引き潮でまた全く違った 音が出るそうです。  今年完成したそうで,さて、城壁の中の旧市街へ。  教会は全部で16あるそうです。,これは大聖堂の塔,円形の聖ドナト教会。   手前にはローマの遺跡が,ローマ遺跡の柱,ローマ時代のフォーラム,フォーラムの復元図です,ベネディクト修道院。 ここまでの建物や遺跡は、 同じ広場の周りにあります。,ベネディクト修道院の中,大聖堂入り口,旧市街のメイン、シロカ通りです,,街の中心ナロドニィ広場で自由行動。 暫く街を散策することに・・・,,広場での素晴らしい声に聞き惚れ、 衝動的に彼のCDを買ってしまいました,,オープン市場を一回り、 現地の人たちの雰囲気が 良く伝わってきて楽しいです。,昼食後、海岸線を一路トロギールヘ,,,,,途中の街でトイレ休憩,トロギール(金持ちの意)到着。 ,本土から小さな橋を渡り、島へ。,南門を入ったところに広場が。 時計塔(センスバスチャン教会)     15〜6世紀ベネチア帝国により ロマネスクやゴシックの建物が建てられる,ローマ時代の部品や 色々な時代のものが入り交じった 裁判所(シティロジャー),BC3Cギリシャ人によって町造り(街の名はトラクリウム),広場の周りには色々な建物がひしめいている。 街のシンボル、聖ロブロ大聖堂,17C、オスマントルコに押される。 広場で自由時間。 迷路のような町の中をうろうろ,細い道も、まっすぐだと何とか方向が判るが・・・,カーブが何度か続くと、もう訳が分らなくなり、適当に見当を付けて,何とか北門へたどり着いた,対岸のチオゴ島です。  16〜7世紀ペストなど伝染病に かかった人を集めて、 橋を閉めて隔離しました。,北側の門から見た カメルレンゴの塔 (オスマントルコから守るための聖マルコの砦) です。   20q離れたスプリットの街へチェックイン,ホテルからそのまま徒歩で、スプリットの街を観光。 クロアチアではザグレブに次ぐ大きな都市。 人口30万人,スパ(温泉)のビル。 イオウが出たらしくヨーロッパ各地から沢山の人々が来た。  現在は病院になっています,ネクタイ、発祥の地  一番最初にネクタイをした人がいたらしい・・・・,,ベニスの総督が建てた、 15Cの市庁舎,宮殿の遺跡を利用したビルが・・・,旧市街の中心地ナロードニ(ピアッツァ)広場。,北の城壁の門前にあるグレゴリー司教の像,金の門とよばれている。  当時は装飾が立派で その言葉に値するような門 だったのですね。,旧市街の中を散策します。   やはり狭い通路ばかりですね〜,ローマ時代の最後の皇帝ディオグラヌス帝がスプリットの出身でした,,,305年ディオグラヌス帝は、 引退後スプリットに戻り、 宮殿を建てました。  列柱広場です。 向かって右側は兵士の住居です,,大聖堂,柱とスフィンクスはエジプトから 持ってきたものだそうです。,,304年大聖堂  最初はディオグラヌス帝の霊廟でした。,宮殿のメインエントランス   1979年世界遺産になりました。,宮殿周り。 旧市街は人口4000人  有名人が土地を買っているとのこと。 1平方メートルで4000ユーロだそうです,地下街=宮殿の土台の部分   城壁は全て住宅として使われています。,,スプリットを離れる前に、 モダンな店で昼食,,またまた車窓から、 素晴らしいアドリア海を 眺めながらドライブです,しばらくは、アドリア海の景色を見てください,,,,,ここは海ではなく、 7つの湖があるBacina という名の町  ここでトイレ休憩です。,,,,,,畑や田圃もヨーロッパ調というか、何となく芸術的ですね〜,クロアチア〜ボスニア・ヘルツェゴビナの国境を越えます。  ボスニアヘルツェゴビナの国旗が翻っていました。,ボスニアヘルツェゴビナのアドリア海沿岸部は わずか11キロメートル。  ほんのわずかにしか過ぎません,そのため港を作れるところが無く、 クロアチアから借りることによって クロアチアの土地に港を作っています,新しくできた、素晴らしいホテル のようなものがありますが、 ほんの一握りの人たちのものであり・・・・・,ほとんどが、こういう家に居住しています。   やはりクロアチアとの差は、歴然としていました,,一応、ボスニア・ヘルツェゴビナの 「Neum」という町に足を記すという意味で、 下車し写真撮影をしました,,さて、又クロアチアに戻り、 向かいに島のように伸びていた、 ペリオシャッツ半島に乗り入れ・・・,コルチュラ島へ渡るフェリポートへ向かいます,ペリオシャッツ半島の峠からの写真,半島先端のOrebicという町で・・・,フェリーに乗り・・・ ,アドリア海の真珠が輝いています,コルチュラ島へ渡り、 ホテルにチェックインしました。,朝、徒歩でコルチュラ村へ。,コルチュラ島人口12800人  コルチュラ村350人  旧市街の住民は35人   13Cの城壁が残っている,トミスラフ広場から、 旧市街の入り口である城門を。   城壁の塔は17あった(現在は7コのみ),城門をくぐったの先の部分,ラッキーなことに、 500年前から地中海に伝わる 伝統的な踊り「モレシュカ」を 見ることが出来た。,,女性(姫)を巡って戦うという内容の舞踊で、 有料らしいが、城壁の上からうまい具合に 見ることが出来ました。,城門を入ってまっすぐ続く道を中心に、 それとクロスする道路が何本かあり、 その道路は中心の道路から左側は 海が見えるまで直線。 右側(写真)はカーブさせて海風を避けている,こちらはまっすぐ走る右側の道路です,城門から入り中心の道路を、 少し行くと旧市街の中心 聖マルコ広場に出る。司教の住居や 貴族の館 ,聖マルコ大聖堂,聖マルコ大聖堂  17世紀  上→ルネサンス 中→ゴシック 下→ロマネスク様式,,「東方見聞録」の マルコポーロの生家といわれている。 彼はヴェネチア人ですが、 こちらでは母親がここに滞在して、 生誕したということでした。,マルコポーロの生家の最上階からの景色,聖マルコ教会側,マルコポーロの生家にあった13C当時のコルチュラ島の地図,,マルコポーロの肖像画,城壁の外側を散策  旧市街の35家族の人でしょうか。  完全なプライベートビーチですね〜,海に面した島を囲む道路から真ん中喉売るへ通じる路地です,コルチュラ村入口近くの港,フェリーの順番を待つためバスは既に港へ。  私たちは小舟でフェリー波止場へ,コルチュラ島とお別れ,コルチュラ村をあとに,小舟なので水面が目の前に。   素晴らしい色です。,フェリー波止場で,,来るときはフェリーが混み合って、 バスに乗ったままだったが、 今度は舟の甲板から写真を,とにかく目にしみるような海の青さに感動です,,対岸のペリエシャツ半島です,フェリーを下りて、バスで山を登り、ビューポイントで撮影ストップ,ペリエシャツ半島のストンという町で昼食,海のちかくばかり走ってきたのに、 今まではシジミくらいのムール貝と 桜エビの缶詰のようなもの、 それに冴えない魚ばかりで、 久しぶりに魚の唐揚げを・・・,塩田の町マリン(小さな)ストンを観光。  万里の長城のような感じの城壁。,14C 5.5km 40コの塔   現在は980mだそうです,城壁から眼下の景色です,城壁を造った理由は、 隣の国などから塩田を守るためだとか・・・,30℃・・・  汗をたっぷりとかきました,塩田の景色が見えます,城壁巡り,町中を通ってバスへ戻ります,日陰で涼んでいた家族に、娘さんの写真を撮らせて貰いました。  親の指示で襟を正してポーズを・・・ つまんなーい,町から城壁を,町の中心道路から直接城壁への階段があった,好い天気です〜,さて、 一路最終宿泊地 ドブロブニクへ,,車窓から,巨大な木のところでトイレストップ,,,巨大な木のところでトイレストップ,熱さを忘れるほどの景色が続きます,ドブロブニクへ近づいてくると 豪華客船が目立つようになります。   係留地として有名なのですね。,,,,,,,ドブロブニクに住む、 運転手のマリオさん、 愛娘と愛息がホテルまで出迎えに。  10日以上も離れていたので、 仕舞いには涙ぐんでいましたよ〜,ボクだって抱っこして欲しぃーー!!,夕食時、食堂のパノラマウィンドウでサンセット前の景色が夕食時、食堂のパノラマウィンドウでサンセット前の景色が,夕食時、食堂のパノラマウィンドウでサンセット前の景色が,サンセットをガラス越しでなく撮りたくて、 食事を早めに切り上げて自分の部屋へ。  いい雰囲気です。,まるで朝日新聞の社旗ような画面ですね,そうです。 この旅行、最初で最後のファインヴュー のルームに・・・・   もっともここは全室同じ向きで、 みんな同じ条件でした。,ベランダに出て、ゆったりとファインダーを覗く・・ 最高に幸せな瞬間です。,,水面に映る光線上に、タイミング良く帆船が・・・,明日のドブロブニク観光のため、英気を養うことが出来まし,朝、4時頃、既に新しい客船が入港の準備に・・  今日の市内観光は混み合いそうです,朝食会場の窓に食べ物をねだり、 席のすぐ近くにカモメが、 勿論ガラス越しです,旧市街まではバスで。 車窓から,さて ドブロブニク旧市街の入り口   ピレ門,ピレ門の前の石橋から城壁の外側を通して海を望みます,門を入ってすぐ右手にあるオノフリオの噴水  1438年,美味しい天然の湧き水だそうです,ピレ門からまっすぐ続くメインの「プラツァ通り」,先ずは左手の一番手前にある フランシスコ修道院へ、  14〜15世紀、1667年地震の後に再建。 ロマネスク様式の回廊です,600年以上前に出来た薬局があり、 そちらを向いている顔の腫れた彫刻が。,ここに住む7人のうちの一人の修道士,ここで一番上の位の修道士の棺。  回廊の天井付近に納めてありました,,修道院を出てすぐ裏のメイン通りと平行の道へ。 ,狭い道がレストランの食堂に。 私たちも昼食の予約を・・・,,600年前の典型的な家の中だそうです。 部屋がほとんど無く階段がすぐ目の前にあった。,メイン通り以外はどこも、こんな細道です,,メイン通り以外はどこも、こんな細道です,ドミンゴ会修道院   バオロ・ヴェネツィアノ画。  キリスト受難像,空がどこまでも青いです,ルジャ広場からピレ門(入り口)方面を見た  プラツァ通りです,,ルジャ広場に面しているスポンザ宮殿。  1516年当時税関として造られた,塔の鐘は青銅の人形が打つ,突き当たりを曲がると大聖堂が。,大聖堂の中。ミサが行われていて写真はこれだけです。,ルジャ広場。  商売をしている風でもないけど、 ことさら優雅な歩き方をして、 何度も往復していました。,旧総督邸。  政治の中心で一ヶ月に一度、 元老院の指名により交代で着任。  民主的な政治が行われた,旧総督邸   秘密会議が行われた部屋。  隠し部屋のような感じです,旧総督邸。   壁が手すりに掴まってる!!!,,聖母大聖堂。 17〜18世紀 バロック様式 大理石の祭壇。 当地の有名画家の絵が飾られていましたを海側から見ます。,海からの景色を見たくて、 遊覧船をチャーターしました。,がっちりした城壁がすごく印象的です,,,,暑かったので海の風邪がとても心地いい,あの一番高いところが25m  長さ周囲1940m、壁の厚さは陸側で4〜6m  海側で1.5〜3m,すぐ外側は民家でプライベートビーチ・・・ いいなぁ,海の青さは特筆です,だれもが感嘆とため息ばかりでした。,・・・・・,豪華客船、何千人もの客が旧市内を観光していました。,プライベートビーチ。 プールはいりませんね,海から見たドブロブニク旧市街の全景です。,旧市街に戻り昼食へ   チアガールと吹奏楽の行進があり・・・,,暫くはついて歩きました。   ミーハーは年をとっても治らない・・・・,なぜか、少女が百合の花を持って歩いていました。   ものすごく目立って注目を集めて・・・,例の狭い道路の幅3分の2を占領して遅い昼食。 歩いてる人が気を遣ってしまいます。,昼食後4時間の自由時間。 5時にバスが迎えに来るか、 遅くなってもタクシーで帰ることが出来ます,港をみてから,城壁を一周することにしました。  有料です。  これは城壁の内側の道路です。,ここでドブロブニクの簡単な歴史を。 ドブロブニク→スラブ語で森を意味する。 町の起源は7世紀、スラブ人の南下で 攻撃を受けた近くのツヴァタトの住民が 逃げて住み着く,ドブロブニク自由独立国家として君臨し、 15〜16世紀に繁栄期を迎えるが、 地中海域の覇権争いが波及、徐々に 衰退に向かいます。,1667年には大地震に見舞われ崩壊。,独立共和国時代、 貴族が支配し国政は元老院に委ねられ、 元首は任期一ヶ月で選出される総督でした。,,一番いいときは、各島々を加え、 アドリア海最強の経済センターとなった,1806年フランスに征服され、 1808年にはドブロブニク共和国は廃止され 1809年イリリア州に組み入れられることに。,文化的には、 1301医療サービスを始め、 1317最初の薬局が出来る。,1347老人のための施療院、 1432には孤児院が開かれる,町の水道施設が完成しました,文芸の中心地としても、 地元画家たちが独自の画風を競い、 そうそうたる科学者も輩出したそうです。,,気持ちのいい散歩です,,海の青さに感動,,ご愛敬の大砲,城壁からの素晴らしい眺め、 堪能して頂けたでしょうか。 最後にまだ見てない路地を通り・・・,ピレ門の外のお店でコーヒーを飲みながら、 PM5:00に出迎えのバスを待ちます。モンテネグロの国境へ日帰りの観光です,朝早く、車窓の景色も身持ちがいい,出発後すぐ、車窓真下にドブロブニク旧市街が,バスの止められるところで、 撮影ストップをお願いしました,,,良かった〜   かなり気に入った写真に〜,さて、相変わらずアドリア海の 素晴らしい眺めを満喫,,朝の海景色も最高です,,,モンテネグロの国境も、 パスポートを見せることなく、 あっさりと通過,モンテネグロへ入って 最初の町の交差点で信号待ち,キョウチクトウのそばで佇んでいる女性、 心なしか皆さん背が高く感じます,フェルツェノビの町  オスマントルコを迎え撃つための要塞    車窓からです,フェルツェノビ  前にはウィーンからの終点だった駅舎があるが、 今では小さな港町になっているそうで,小さなコーヒーショップでトイレストップ   モンテネグロのことを少し・・・  セルビア、モンテネグロの二つの 連邦共和国から成り立っている,古い車が多い。    1382年にボスニア王国を作るが、 わずか6ヶ月で王は身を退く. その後はイスラム(14C) ベネチア王国(15C) ナポレオン(19) ハプスブルグ などの支配下におかれることになる,,ボカ湾を一週。湾に浮かぶ人工の男島。  冬には山に雪がかぶり、海側は冬でも半袖でバナナも産出。  海と山では対照的な気候だそうです。,女島(人工ではありません)   14〜18Cには、貿易国として繁栄したが、 18Cごろから経済が落ち込んで行きます。,ボカ湾の素晴らしい景色です。    7000年前の居住者がいて、 この近くの洞窟に岩絵があるそうですが、  徒歩で山登りのため素通りです。,ボカベイ、 1998年世界遺産に。 BC168年イリビア(ギリシャ)人、 その後ローマ人が住む   AD5〜6Cスラブ人,1998年通貨暴落のため ドイツの通貨(マルク)に変わり、 そして現在のユーロに至ります。,ペラスト、 バロックの街として知られている.。 オスマンから守るための重要な街で,オスマンから守るための重要な街でした,城壁の街コトル 紀元前から地中海を代表する町だったそうです。城壁の一番上(砦)   塩、造船、刀、工芸品などで、 ナポレオンが来るまでは栄えていました,,旧市街の入り口です。 1555年、昔ここまでは海で、 舟をチェックすることから「海の門」 と呼ばれていた  門はバロック建築です,メイン広場です。  右下の三角形の建築物は、 罪を犯した人を縛り見せしめにしたところ。 「通る人がハムを身体に貼り付け、 縛られて食べられないのを笑った」 と言われてるそうです,,城壁の一番上(砦)   塩、造船、刀、工芸品などで、 ナポレオンが来るまでは栄えていました,,,やはり狭い道を通り,コトルで一番美しいカテドラル トリフン大聖堂 1266 ロマネスク様式    1667年地震やペスト、火事などで 崩壊してしまった。,コトルで一番美しいカテドラル トリフン大聖堂 1266 ロマネスク様式    1667年地震やペスト、火事などで 崩壊してしまった。,金銀の祭壇や彫刻、 ビザンチンスタイルのフレスコ画 などが飾ってありました,海辺のレストランで昼食,昔のまま残っている窓の部分。 他の部分よりキレイです,コトルから山を越えて又海岸線へ。   近代史。   第一次大戦   アレクサンドリア王国、独裁。 第二次大戦でドイツナチスに。 1946 6コの社会主義国   1991 内戦(独立),2006年2月国民投票で セルビア共和国と別れるための 選挙を予定しているそうで,ステファン島とブドバ ステファン島  漁師の町だったが、19〜20C アメリカ人が来て第2次大戦を迎える。 3人が残りホテルを。 プライベートを守ることで人気。 有名人がヘリコプターで来たりして、 パパラッチも多くなった,ステファン島のところで 撮影ストップ後、Uターン。   最近急速にリゾート化の ブドバの町へ戻り・・・,海辺のレストランで昼食,色々なものが交わったブドバの旧市街へ,ローマ時代から、中世、近代、現代 全てが入り交じった町,なんと、お店の地下にローマの遺跡が・・・,この国の女性はみんな足が長く背が高いなぁ,特別説明するようなものもないようで、 すぐに自由時間。  町中を歩いたり、アイスクリームを 買って食べたり・・・ 好きなんです σ(^_^;)?,石壁の隙間から生えていた花です,可愛い女性・・・ でも何歳なのか見当がつきません,帰りの道はボカ湾をフェリー(5分ぐらい)で。  1時間半も短縮します,,モンテネグロの家。 窓の色がマチマチでした,,日も、ドブロブニクの海に日が沈み,明日はAM4時に空港へ向かいます。  ザグレブ、ウィーン経由、 オーストリア航空で成田へ。  お疲れ様でした・

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