コパン遺跡 

コパン(ホンジュラス)

19世紀、探検家スティーブンスと画家ギャザウッドの第1回探検行で始まった調査は、全てのマヤ遺跡のなかではもっとも綿密に行われている。
コパンの名を高くしたのは、近くにあるキリブレ遺跡とともに、立体的な高浮き彫りの彫刻だ。
古典記マヤでもっとも完成度の高い芸術がマヤ文明の中心地でなく、東の外れの山間の谷で生まれたということは特筆に値する
コパンが重要視される、もう一つの理由に「人工の丘(アクロポリス)」がある。
この複合建築は16代に渡って歴代のコパン王が営々と築き上げたものだが、 過去1000年間に渡ってコパン川アクロポリス東端を浸食し続け、多くの貴重な建物が崩壊した。
しかしそのお陰でアクロポリスの断面が露出し、400年に渡る建造物の積み重ねを見ることが出来るようになった。
最盛期であった13代「18うさぎ王」が、キリグアのカオヤックスカイに殺されて、衰退したが、コパンの国は細々とAD900年頃まで続いた。
町の広さは24km四方。ちなみにティカルは100km四方である。

コパン遺跡はホンジュラスにあるが、地形的に離れ小島のようになっているため、 交通の便はグァテマラから簡易的に国境を越えて行くことになる。
一応イミグレを通すが小さなハンコウのようなものを押すだけで、正式にホンジュラスへ入国したことにはならないそうだ。
今回、中米5カ国(7カ国からコスタリカ、パナマを除く)の国境手続きを緩和して、出国の国の場所で出入国が出来るということになり、その祝賀行事ということで準備の野外会場が設けられていた。


素晴らしいステラで知られるキリグア遺跡(グァテマラ)

はコパン(AD200〜600が最盛期)の支配下の町としてモダグア川の近くに出来た。
状態の良いステラが特徴でサイズも大きく、彫りも深く作られている。
AD723、 最盛期を迎えていたコパン13代王「18うさぎ王」から独立。カオヤックスカイが初大王に。
738年、18うさぎ王はカオヤックスカイに殺される。
キリグアの立派なステラはそのコパンを倒した勢いで作られたもの(砂岩)。
従って全て738年以降のものである。
コパンのもっとも強かった「18うさぎ王」を倒したのがよほどうれしかったのか、ステラにはカオヤックスカイの人物像とその時の内容をを記した史書が多く、ステラそのものもコパンのものより大きくなっている。
その後コパンは衰退、変ってキリグアが台頭。 それ以後立派なステラ(石碑)が次々と建てられる。
ステラには、文字や王の姿、それにジャガーやハ虫類などの獣型の姿をした神が彫られたものが多かった。
カオヤックスカイいの息子の王(785〜800在位)のあとキリグアは衰退する。
遺跡は3つのパート(@プラザAステラB宮殿)に分けられるが、コパンに対してのコンプレックスから対する成果のステラ建立に力を入れすぎて、立派なアクロポリスや神殿を建てる余裕がなかったらしい。


マヤ文明の宇宙と神々について 

ユカタン地方の人々は世界は平坦な四角形で、その上に13層の天界、その下には9層の地下界があり各層に特定の神がいると信じられていた。
天地の根本的な対立は宗教観の中で、光と闇、生と死、男と女等の対立を象徴したものとして考えられていた 。
世界の四隅にはバカブ神が立って天を支え、中央には、聖なるセイバの大樹がそびえているとされ、
世界の4っつの方角と中央には特定の神格と色彩が定められていた。
マヤ地方の北部低地には、トウモロコシの神、風邪の神、死の神、戦いの神、自殺の神など、30を超える神格があった。
そのなかでも、涙を流す鼻の長い雨の神チャックが一般農民に特に信仰され、貴族層では、太陽神・雨の神を支配する、イツアムナーという空の神が崇敬されていた。
人々の間には、巡礼、贖罪、命の樹としての十字架など、キリスト教に似た宗教的要素も見られる。
生け贄の習慣もあったが、これはトルテカ文化の影響で始まったもので、当初のマヤは人間の生け贄という儀式はなかったようだ。
トルテカの宗教哲学に寄れば、夜とは太陽の衰退の時間だから、夜明けに、その太陽を再び天に昇らせるには、人身供養という方法で太陽に活力を与える事が必要だったのである。

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