海外編

シルクロード 天山南路
ユーラシア大陸横断14000q バスの旅 
トルコへの旅行時、イスタンブールのトプカプ宮殿で、日本の素晴らしい焼き物が展示され、オスマントルコの全盛で,他国の貢ぎ物としてそれがシルクロードによって伝わったことを知った。 いったいシルクロードとは...それ以後、それが第2の人生のライフワークに(大げさ!)。 その中から、始点,西安(長安)からイスタンブールまで、国境でバスを乗り継ぎ、14000qを55日間で繋げた時の写真です。





   中国の部@
都長安
13枚


   中国の部A
黄土高原
13枚


   中国の部B
河清回廊@蘭州
13枚


   中国の部C
河清回廊A嘉峪関
12枚


   中国の部D
河清回廊B敦厚
12枚


   中国の部E
天山南路オアシスの町@トルファン
21枚


   中国の部F
天山南路オアシスの町Aクチャ
24枚


   中国の部G
天山南路オアシスの町Bカシュガル
12枚


   中央アジアの部@
ナリンの町 キルギス
8枚


   中央アジアの部A
イシク・クル湖 キルギス
18枚


   中央アジアの部B
トクマクの遺跡(キルギス)とジャンプール(カザフスタン)
11枚


   中央アジアの部C
タシュケント ウズベキスタン
9枚

   中央アジアの部D
サマルカンドとブハラ ウズベキスタン
17枚


   中央アジアの部E
メルブの遺跡 トルクメニスタン
9枚


   イランの部@
マシュハッドとカスピ海 イラン
19枚


   イランの部A
エルブルズ山脈とテヘラン イラン
11枚


   イランの部B
ペルセポリスの遺跡 イラン
14枚


   イランの部C
トルコの国境へ
16枚


   トルコの部@
クルド人の町ドウバヤジットとエルジンジャン
12枚


   トルコの部A
カッパドキアとコンヤ アナトリア高原
12枚


   トルコの部B
エフェソス
14枚


   トルコの部C
イスミールとプルサ
12枚


   トルコの部D
イスタンブール
15枚



      









シルクロード天山南路中国の部
シルクロード1(天山南路)中国、西安 シルクロードの起点 長安西門,陝西省歴史博物館,秦の始皇帝陵,兵馬俑坑,唐三彩,唐の玄宗皇帝と楊貴妃,開元の治,安史の乱

永泰公主は則天武后の孫,茂陵,漢の五代皇帝,武帝,霍去病,北方騎馬民族,匈奴,平涼,黄土高原,ヤオトン 大仏寺,石窟

蘭州,黄河に沿う劉家峡ダム 炳霊寺石窟へ,唐代 大磨崖仏,武威 文廟と雷台,蘭州博物館,銅奔馬,漢の武将の墓,烏鞘嶺

明の万里の長城最西端,酒泉,魏晋壁画墓,北魏の時代

敦厚莫高屈,鳴沙山,壁画や石窟,三危山,莫高屈の塑像,漢の万里長城最西端の玉門関,河倉城

トルファン,干しぶどう小屋,火焔山,ベゼクリク千仏洞,高昌故城遺跡,屯田兵,高昌国は唐代に滅亡,天竺,ロバ車,交河故城 ヤルナイゼ川

クズルガハ、ゴビタン、シルクロード、バザール,ナン,キジル千仏洞,青の石窟,クズルガハ千仏洞,クチャ大寺

カシュガル職人街,中国最西端の町,香妃の墓,イスラムを広めたホージャ家の墓,陸路の国境,トラガルト門

シルクロード天山南路キルギス
キルギス最初の町ナリン,中央アジアのアルプス

イシク・クル湖

ジャンプール、カラハン朝の夏の首都、トクマク 石人、突蕨時代、タラス川、唐の製紙技術、パピルス、ビシュケク

シルクロード天山南路ウズベキスタン
カンプルゴン、クマクラ、、タシュケント(ウズベキスタン)

ソクド人(シルダリアとアムダリア川に挟まれた地区)サマルカンド、アブラシアブの丘、ビビハニム寺院、レギスタン広場、チムール、シャーヒジンダ廟、グルエミール廟、シルクロードで一番美しい廟、ブハラ、アルク城、カリヤンミナレット、イスマイルサマニ廟、キャラバンサライ、ラクダの隊商

シルクロード天山南路トルクメニスタン
マリ(トルクメニスタン)キズカラ、メルブの観光、




中近東

イラン
イラン、マシュハッド(イラン)、イマームレザー廟、シーア派の聖地、黒のチャドル、ミヌダシュト、ナウシャール、カスピ海

テヘラン、エルブルス山脈のチャールス峠、アミールキャビールダム、ガラス博物館

シラーズ、ペルセポリスの遺跡、ペルシャ、アケメネス朝、ゾロアスタ教、ダリウス クセルクセス、ザンジャン

トルコ
タブリーズ、クルド族、イラン〜トルコ国境、ドウバヤジット、イサクパサ宮殿

エルズルム、チフテ・ミナーメドレッセ、エルジンジャン、シバス、クズルダハ峠

カッパドキア、ゼルベの谷、ウチヒサール、狩人の滝、妖精の煙突、コンヤ、キャラバンサライ(隊商宿)スルタンハーニー、メブラーナ廟、インジェミナーレメドレッセ、 パムッカレ、エフェソス、聖母マリア晩年の家、ビザンチン帝国、東ローマ、イスミール

ギリシャのサモス島、プルサ、ペルガモンの遺跡、アナトリア、イスタンブール、アヤソフィア、ボスフォラス海峡、ブルーモスク







○トルコへの旅行時、イスタンブールのトプカプ宮殿で、日本の素晴らしい焼き物が展示され、オスマントルコの全盛で、他国の貢ぎ物としてそれがシルクロードによって伝わったことを知りました",○いったいシルクロードとは...それ以後、それが第2の人生のライフワークに(大げさ!)",○国境でバスを乗り継ぎ、14000qを55日間で繋げた時の写真です。そのなかから西安の部",○今回の旅行はほとんどがイスラム圏で、モスクを見るという事も課題の一つ。中国では清真寺といいます。ドームはありませんでした",○秦の始皇帝陵",○唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの地    玄宗は開元の治と称されたが、晩年は酒食におぼれ、安史の乱を招き、唐は衰微する",○シルクロードの起点    長安西門",○シルクロードの起点で出発式と記念撮影です",○先ずは陝西省歴史博物館にて",○陝西省歴史博物館   兵馬俑坑の出土品  唐三彩
秦はBC221〜206と短命だったが、初めて中国を統一した。兵馬俑坑の人物像、馬、装飾品まで見事なまでに写実的で、靴底には針の穴まで彫ってあるという",○永泰公主は則天武后の孫で彼女に殺された",○武帝(BC2〜1世紀)は 前漢の最盛期、霍去病を擁し、北方騎馬民族匈奴を討って西方(シルクロード)を確保した",○茂陵 漢の五代皇帝、武帝(BC2〜1世紀)の稜" ○六盤山  標高2500m 階段が息苦しかった。今はトンネルが出来てここを観光することはなくなったそうです。",○大仏寺石窟 岩に掘られた巨大な大仏を寺でカバーしている 敦厚莫高屈の96屈と類似",○",○どちらを向いても家らしきものが見あたらない。どのくらいの距離を歩いてきたのだろうか",○道路に並べ、車にひかせることによって脱穀 頻繁に見られました。",○",○ヤオトン 黄土高原の段差を利用した家  窓がなく洞穴のようです",○",○黄土高原 部分的に畑があるが、棚田ではありません",○千五百メートルほどこの形で登り、この高さのまま丸2日間バスで走り続けました。",○昼食はいつも町の食堂を利用することに決めています",○",○料理用の鶏です" ○蘭州 到着     甘粛省博物館",○甘粛省博物館で展示している銅奔馬 です。  撮影禁止のため絵はがきよりスキャン",○蘭州連泊で炳霊寺石窟へ",○黄河に沿う劉家峡ダム",○石窟の周囲はどこも景色が美しいです",○",○炳霊寺石窟      4世紀末に始まりました    高さ27mの唐代 大磨崖仏",○",○",○武威 文廟と雷台 蘭州甘粛省博物館の銅奔馬はここの漢の武将の墓から発掘され、芸術性が高いことが分かった そうです",○武威の町観光 古鐘楼とその近くの老人憩いの場。 麻雀、将棋?、喉自慢など毎日のように楽しんでいるらしい",○武威の町。 夕食は町の屋台で食べました。",○酒泉へ向かいます",○1996年現在、タマネギひと袋日本円で200円だそうです"○武威を越えると”砂漠に入った”という印象が強くなります。河清回廊は西に向かって左に祈連山脈、右に砂漠を見ながらオアシスの町を巡ります。",○明の時代の「万里の長城",○張液 中国のコメどころ(産地) 大仏寺を見学 すごく大きな釈迦涅槃の像が安置されています",○酒泉到着 武威からは砂漠のオアシス沿いに町があり、そこで宿泊する。 酒泉のバザール散策",○酒泉から敦厚へ 魏晋壁画墓 砂漠の中にひっそりとある、北魏の時代の金持ちの墓 です",○魏晋壁画墓の中の絵 死者の生活を書き記してある。これらから当時の楽器、農耕や狩り、武器と戦い、お祭りと遊技などを知ることが出来ます",○嘉峪関 明の万里の長城最西端",○嘉峪関  この広場にに兵隊が寝泊まりしたそうです",○嘉峪関 から続く明の万里長城",○ヤルタン
砂漠の強風により、長い間を掛けて出来た景色",○安西(あんしー)
この町から敦煌方面とウルムチ方面に別れる○砂漠の西に向かって、万里の長城の数十q置きに狼煙台があります。兵士が駐屯して北方民族の襲来を狼煙で知らせます。",○敦煌到着。翌朝漢の万里長城を見学に砂漠の中へ60キロメートル、踏み込む 道らしきものは全くない。 帰れるのだろうかと心配した",○その後、河倉城と ・・・",○漢の万里長城最西端の玉門関へ    昔はもっと大きな川が流れていてオアシスだったらしい",○敦煌 鳴沙山",○美しい砂山",○鳴沙山へラクダと徒歩で登りました",○莫高屈 三危山に向かい合うように鳴沙山の東端の崖に作られました",○敦煌 莫高屈",○4世紀から14世紀にかけて1000以上の壁画や石窟があります",○莫高屈の塑像 撮影禁止のため、実際に見たものを絵はがきからスキャンしました",○芸術的にも歴史的にも素晴らしいもの....らしい"○敦厚を越えると、すぐにゴビタン(砂ではなく石ころなどが多い)の砂漠に入ります。 いよいよ西域、新彊ウィグル地区へ",○放牧のラクダがあちこちに見られ、ハミ瓜で有名なハミという町で中継宿泊しました。
その間の景色です",○路も簡易舗装で、地平線まで真っ直ぐ続いたり、360度地平線ばかりのところも出てきます。
星星峡という町がウィグル自治区との境になります",○ロバ車利用は10qぐらいまでだそうです",○ハミ〜トルファン  天山を右、タクラマカンを左に見ながら、ハミ→トルファン(2泊)→コルラ→クチャ(2泊)→アクス→カシュガル(2泊 中国最西端の町)と進みます→天山南路。
トルファンは干しぶどうの産地として有名、町の中の道路もブドウ棚の下を歩くところが多くロバ車のタクシーも大変風情があったのです。干しぶどう小屋があり、写真撮影と交流",○ポラロイドの写真をあげたら、干しぶどうを山のようにくれました",○孫悟空の逸話にある火炎山  標高が低いのでいつも炎天下にあります",○ハミ〜トルファン ベゼクリク千仏洞 77屈あります",○早期のものは6世紀 9世紀中頃最盛期 何度も人為的な破壊に遭っています",○トルファン到着。 アスターナ古墳群 漢の時代の武士の墓",○翌朝、高昌故城遺跡へ 前漢が屯田兵をおいたのにはじまる ロバ車の馬子が100円くれとか、時計をくれとうるさく言い寄ってきました",○この高昌故城には、玄奘三蔵が3ヶ月滞在しました。帰りに立ち寄る約束で来たときは、すでにこの王国はなくなっていまし。た建築は降雨が少ないので、日干し煉瓦を主にする",○唐の時代小さな王国として栄えた国。北の騎馬民族(突蕨→とっけつ)と唐の狭間にあって弱小国として生き抜くために、風に揺られる木の葉のように、その時に応じて大国に附く政策をとっていました",○高昌故城より暫く前に栄えた交河古城",○高昌故城が日干し煉瓦を積み上げて作られたのに対して、こちらは渓谷の岩肌を削ることによって出来た町です",○下には当時の人々のミイラが沢山埋まっているそうです",○",○大変美しいところにあります",○",○"○トルファン  バザールへ",○露天で焼いているナン。練った粉(小麦粉?)を炉の壁に貼り付けて焼く。焼きたての厚いナンは最高に美味しい",○バザールへはみんなおめかしして出てきます",○",○ウィグルの老人はとても素晴らしい絵になります",○",○トルファン連泊最終の夜 民族ショーを・・・",○石油の町コルラへ",○",○一泊したあと長い距離を走り、 次のオアシスクチャへ",○クチャ  スバシ古城見学 亀茲(きじ)の国 仏教をインドからもたらした、鳩摩羅什の出身地。 音楽の元になるものの発祥地。 琵琶と似たようなものが出土している",○クチャの畑で、子供達が夕方の仕事をしていたので、立ち寄り交流です",○",○クチャ市内 クチャ大寺 中国風のイスラム教のモスク ウィグルの人は15世紀に仏教からイスラム教に変わり、今では、ほぼ100%がイスラム教信者だそうです",○",○クチャ郊外 キジル千仏洞へ
塩水渓谷,○キジル千仏洞 砂漠の中の渓谷の絶壁に作られている",○",○壁画の内容から青の石窟といわれている",○クチャ クズルガハ千仏洞 人為的に破壊され、わずかに壁画が残っているだけだった",○",○クズルガハ狼煙台",○クチャのバザール 週に一度の大バザール 皆おめかしして、10qぐらいまではロバ車で出かけてきます"クチャ〜アクス〜カシュガルは砂漠での移動 ウィグル族のお墓。 さばくに埋めて土が盛られただけ。 どれが我が家のものか判らなくなってしまわないのだろうか。 砂漠特有の蜃気楼が・・・",○昼食は毎日が町の食堂でラグメンを。 腰があるうどんのようで、野菜を炒めて露がわり 毎日では胃がもたれるので、めんつゆ持参で時々それをかけて食べる。 もう最高!",○",○中国最西端の町カシュガル 到着後 バザールへ",○カシュガル 香妃の墓 イスラムを広めたホージャ家の墓 香妃はその娘で、清の乾隆帝の妃となったが病没、皇帝が手厚くカシュガルへ送り返した",○カシュガル職人街   色々な音が聞こえてきます",○",○カシュガル シンボルのモスク  エイティガール 16世紀には完全にイスラムが浸透した いよいよ キルギスへ 国境へ向かう",○中国側の国境で記念撮影です。
陸路の国境越えは非常に厳しい 丸一日かかることを想定して日程を作る必要があります",○緩衝地帯を走るバスに乗り山頂の国境地点トラガルトへ",○景色が変わってきました",○トラガルト門 この門の向こう側はキルギス 標高3800m ちょっと息苦しい キルギスから迎えに来るバスを待つため暫くバスから出られずにいました。○中国は総行程55日のうちの3分の1強である20日間でした。
いよいよ今日から中央アジアに入ります。",○国境を越えたあとの景色です。  アジアの中のスイスといわれた景色を堪能しました。",○ナリンは国境を通る都合で泊まるだけ。 ベッドもひどく食事もすいとんのようなスープとパンのみ 中国の16品目ぐらいの食事とは一変です",○",○野外のドライブインといったところでしょうか。バスや自家用車が沢山止っていて人が大勢。 トイレ休憩",○",○キルギスの人から戴き、自家製の馬乳酒を味わいました(私はアルコールはだめ)",○イシク・クル湖 近くの食堂で食事、バザールも見学しました"イシク・クル湖 ソ連時代、世界に隠していたリゾートといわれる 景色の素晴らしいところ   将校クラスが保養に来たというサナトリウム形式のホテル",○今日は一日中自由行動です",○ホテルからの景色",○天山山脈です",○",○イシク・クル湖 一日中自由行動でトレッキング 近くの低い山を登る 事にしました",○山頂にたどり着いたら、犬を連れた羊飼いの人が待っていました かっこよすぎる....",○一緒に食事をしたり、手振り身振りで天山山脈のことを聞いたリ",○楽しいひとときを過ごしました",○",○別れの時には昔見た映画’シェーン’のラストシーンを思い出しました。",○",○翌朝、ホテルの庭を散策 です",○",○琵琶湖の9倍の大きさだそうです"イシク・クル湖〜ビシュケク〜ジャンプール
途中でタイヤがバースト。 替えが無く運転手は2時間ぐらいタイヤを求めて消えてしまいました。
その間ウィグル人のガイドに歴史のレクチャーを受けました",○トクマク 12世紀カラハン朝の夏の首都(冬の首都はカシュガル)として栄えました。後にジンギスカンに滅ぼされる",○石人 紀元3世紀頃、匈奴に変わり勃興して6世紀に王国を建てた突蕨時代のもの。",○突蕨はモンゴリア高原からソクド地方(シルダリアとアムダリア川に挟まれた地区)まで勢力を誇った。石人を作った理由は不明だそうです",○",○ビシュケクへ到着  ホテルにチェックイン",○チェックイン後すぐにバザールへキルギスのスポーツ相が会いに来てくれました○中国での国境と違ってあっさりとカザフスタンに。 途中ユルタの食堂で昼食。 青空でトイレ休憩中、車が我々のそばへ道路から飛び込んできた。 そのあげくに警官が来る前にということで、後押しを手伝わされてしまった。,○ジャンプール 途中イスラムと唐の戦いがあったタラス川を通る。この後唐は衰退する。 ホテル到着",○エレベーターもボーイもいなく、仕方なしにスーツケースその他を各自持って4階へ 。  カザフスタンは日本の6倍の面積がある。 ほとんどが牧草のステップ地帯で綿花の生産が殆ど。 オイルも大変な量が地下に眠っているらしい,○翌朝、牛の散歩と一緒に出発 市内に観光の予定は無かったが遺跡が1つ あると言う地元のバス運転手の言葉で早速見学に・・ ババチャハトゥン廟 。 ソ連時代の影響で綿花を加工したりオイルを掘る 技術が無く将来性は楽しみだが他国の思惑もあってこれからが大変だとのこと"ウズベキスタンの首都タシュケントに到着 今回も国境はスムーズに通れました。",○到着後、ソ連時代第4の都市タシュケントの一流のオペラを見に行く 入場料180円本当に素晴らしいオペラでした",○翌日は自由行動 タシュケントの旧市街を散策に メドレッセ(神学校)やモスクなどを見に行きました。",○旧市街からの帰り道 地下鉄に乗るまで町を散策 素朴で素直な子供たちばかり 終戦後の日本の子供たちを思い出します。",○旧市街からの帰りに寄ったバザールです",○地下鉄の駅です。",○翌朝、タシュケント〜サマルカンド 露店でで瓜を買って食べる ここで食べたカンプルゴン、クマクラは甘く水っぽくこくがあって最高!",○マスクメロンや夕張メロンなんかとは月とすっぽん!!(絶対本当の話です) 1コ100円 これを食べるだけでももう一度行きたい 〜",サマルカンド 到着後、アブラシアブの丘の遺跡へ つちくれだったが・・・",○そこで見つかった壁画 ソクド商人の絵 シルクロードを股にかけ、シムダリアとアムダリア川を挟んだ地域に君臨 国としての形態を持たなかったが、シルクロードの物流には大きな役目を担った",○サマルカンド グルエミール廟 シルクロードで一番美しい廟と言われる チムール王の墓 生誕660年祭が行われていた",○レギスタン広場 14世紀モンゴル系のチムールが大帝国を作りサマルカンドに首都を設けた",○遺跡にいた現地の女性たちです。庭の掃除をしたりしていましたが、ボランティアでしょうか。,○シャーヒジンダ廟、素晴らしい遺跡 です,○グルエミール廟  シルクロードで一番美しい建物といわれています",○,○,○夜、サマルカンドの民族ショーを見に・・・ エキゾチックでスローな魅惑的な踊り しかも素晴らしい美人たち 「千夜一夜物語」という題名のショーだった。 入場者は我々12に人だけ 途中で出るわけには絶対にいかない。 勿論出るつもりはなかったですけど。,○連泊後、サマルカンド〜ブハラ  昔の水飲み場と 19世紀まで使われていた アルク城",○キャラバンサライ ラクダの隊商のための宿場 約40キロメートルごとにあります",○アルク城です",○ブハラ到着 すぐに、16世紀のシルクロード沿いの都市として そっくり全体が残っているブハラの町を散策します",○16世紀のシルクロード沿いの都市として そっくり町全体が残っています",○カリヤンミナレット 高さ47メートル",○イスマイルサマニ廟 壁の彫刻が美しい モノトーンの美しさ 玄奘三蔵はここから南下し、アフガニスタン、パキスタンを通り、インドへ到達することになる。 帰路はパキスタンからパミール高原経由で、西域南道を戻った"マリ(トルクメニスタン)へ アムダリア川  戦争が始まると即発となってしまうので、鉄道以外の橋ではこの川を渡るのはこの浮き橋だけしかありません",○重い車がくると段差が出来て渡れなくなるので2台目の車を待って高さを調節しながら渡る 陸続きの国境は諍いの時には即発と なってしまうので仕方が無いということでした",○国境では両替の商人がザルに山盛りのお札を入れて並んでいた。 ドルが通用するし、明日にも価値がまた下がってしまうので誰も両替をせずにすました",○バザールでの品物はどの店も10〜15個ほどしか於いて無く、見ているのが辛かった。 ただ人々は皆明るく、元気いっぱいの人たちばかりです",○メルブ遺跡の観光 ものすごく広い 25万平方キロの インドから伝わった仏教が北上し、ブハラで東西に分かれ、東は中国まで伝わったが西はこのメルブまで。 ここ以西では仏教の遺跡がありません",○キズカラ 王様が娘のために建てた城。 チンギスハーンによって破壊された。 壁の小さな穴はバネで石ころをとばす砲弾の跡。  壁のギザギザは砲弾に強い構造 平山郁夫画伯の絵でも知られています",○キズカラの側面",○メルクの遺跡",○トルクメニスタンのホテル。  ベッドが少し動くだけでものすごい音を出します。お陰で一睡も出来ませんでした"今までの旧ソ連の仲間であった中央アジアの国々と違って、トルクメニスタンからイラクへの国境は、厳しいものでした。 中央アジアから中近東へ入るわけです。  昔ヒルトンホテルだったホテルの玄関 アメリカに対する抵抗の文字です",○マシュハッド到着。 参加者の中の一人が、キルギスへ入国した際、渡された書類、トルクメニスタンを出るときはパスポートからはずしておくように聞いていたこtを忘れてしまい、そのことでイミグレで散々もめてしまいました",○翌日、シーア派第2の聖地であるマシュハッドのイマームレザー廟の見学。 口紅などの化粧はダメ、髪は見せてはいけない、半袖、短パンなどは御法度など海外からの来訪者にも、色々と注文を付けるイランですが、聖地の見学は特に厳しく、写真は勿論、黒いチャドルを着ないと入れないという事で、ガイドが借りてきたものを全員が着用",○同じものを着ていながら、きっと我々には判らない、異様さがあったのでしょう。 そばを通る現地の女性が、こちらの姿に釘付け。 通り過ぎてしばらくしても、何度も振り返ってみていました",○",○イマームレザー廟",○ペルシャ語の父フェルドーシの廟とバザールを見学",○マシュハドから北西方向へ、世界一大きいカスピ海の南端とエルブルズ山脈に挟まれた、比較的温暖で雨量も多い日本に似た気候の田舎町へ進みます",○",○ミヌダシュト(ミンダシャットとも)へ到着。 全くの田舎町です",○大変素朴で町を歩くと、どこへ行っても声を掛けられ、お茶を勧められたりします。 私なんか片言しか英語が出来ないですけど、英語がしゃべれる人がいて、私と話をするだけで、集まった人たちの中でまるで英雄になったような感じになるんですね",○旅行の中で一番、のんびりして又来たいなと感じる部分でもあります。
翌朝の散歩です。",○",○チョウザメの卵、キャビアで有名なカスピ海の町へ出発です",○カスピ海 海よりは薄い塩水、ボルガ川によって黒海とつながれています。 世界一大きく何カ国も面している湖。イランでは殆どが個人の土地になってしまって、直接湖に接する事が出来ません。 泊まった宿(ナウシャール)が、ちょうどカスピ海に面した家だったので、何とか見る",○",○翌朝、エルブルス山脈のチャールス峠を越えて、又砂漠側のテヘランへ。トイレ休憩で現地の学生と",○エルブルズ山脈を登り始めます"チャールス峠",○",○エルブルス山脈のチャールス峠、標高2900m地点",○素晴らしい景色でした",○テヘランに近くなり、高級レストランで昼食を・・・",○テヘランの人口1200万人の水瓶アミール・キャビールダム",○",○",○テヘラン到着後イランガイドの家訪問 その家族、 均一の黒いチャドルをいつも来ているせいか、その下は結構派手です",○イランの絨毯は、世界一素晴らしいもので、一枚を手作りで、7〜10年もかけて作るものもあるそうですが、芸術的にも大変素晴らしいもので、素人の私でもため息が出るほどの感動でした。 上の絵は、翌年カナダの、ロッキーのスピリットアイランドの景色です",○翌朝市内観光 ガラス博物館を見学後空路でシラーズへ1泊2日の旅行をします"イランは世界史の上で、3回、大きな帝国を築いている。 アケメネス朝→BC6〜4世紀 俗に言うペルシャ王国 ササン朝→3〜7世紀 正倉院に宝物をもたらした。 サファビー朝→16〜18世紀 アラブから独立し、言語もペルシャ語に戻した",○そのうちの一番よく知られているのがこのアケメネス朝の遺跡です。 広大な領地を持ち強大な帝国として、世界各国に君臨したペルシャ王国",○",○",○",○広大な領地を持ち強大な帝国として、世界各国に君臨したペルシャ王国。",○クセルクセス一〜三世などの王墓とともに、最近まで砂に埋もれていた事と、石で出来た建物だったため、綺麗な形で残っています",○",○各国の使者が貢ぎ物を持って喝見する様子",○宗教としては、エジプトの多神教とともに一番古いゾロアスター教の教義を示す絵",○年代順にゾロアスター教→ユダヤ教→キリスト教",○ダリウス王の墳墓",○",○イランの有名な詩人のお墓"ザンジャンでの昼食は、ガイドの計らいで、現地のご夫妻による、一般家庭の料理(といってもお客様を招いたときのものです)を堪能。多種多様なおかず、果物、など、ホテルのフルコースの数倍も出てきて、それがみんな美味しい! 特にサフラン入りご飯とお焦げ・・・・・食べ過ぎてもまだ食べたかった",○バザールを冷やかしてザンジャンに一泊翌朝出発です",○このあたりは標高1630m 日が当たっているのに4℃ 昨日テヘランで30℃だったのが嘘のよう",○タブリーズで一泊",○市内観光で16世紀のモスクを見学しました",○走っている最中にバスの窓枠が外れ落としてしまい応急処理。これでは写真が撮れない・・・",○そしていよいよ国境へ、 トルコ側にあるノアの箱船で有名なアララット山、天気が思わしくなく見ることが出来ませんでした。 私は、ノアの箱船の一員には入れてもらえなさそうです",○さて、国境です。 55日の最終目的地の国です。 国境施設は、トラックの往来が多いので広いのですが、 イミグレーションの家は、粗末な小屋のような感じで、家の真ん中に仕切があって、その仕切でイランとトルコに分かれています。 その国境を越えるために、トラックの列が延々と3〜4qぐらい並んで停まっています",○おまけにトルコ側の係官が昼食の為、1時間以上戻ってこないとの事でした。 これでは、明るいうちにトルコ側へ入れないのでは・・ ガイドがイランの係官に鼻薬を効かせてくれて、数百台のトラックをさしおいて、スムーズにトルコ側の部屋に入る事が出来たのですが",○出国手続きが済み、トルコ側の狭い部屋へ入ったとたん鍵が閉められ、しかも出口と窓は鉄格子の入った、まるで留置場のような感じ。 中には我々の他に4・5人が・・ 息苦しいところで、いつになるか分からない係官の帰ってくるのを待つより仕方が無かった。そこには、クルド人が夫婦がいました",○英語とクルド族の分かる人がいて、その人を通じて、もうここに30時間以上も出してもらえないでいる事が分かりました。 クルド人はすでに知っていると思いますが、イラン、トルコ、イラクの三カ国の国ざかいに居住し、ちょっとした国よりも多い、1200万人の人口を持ちながら、国といわれる土地を持っていない民族です",○ただそれだけで、色々とした悲哀を味わわされています。 係官がいなかったので、撮影禁止のところを、素早くクルド人を撮りました。 イミグレーションを出ると、外の門までは砂利道で、各自スーツケースを持って歩かなければなりません。 55日分の荷物です。  皆、大変な思いをしました",○最初の町ドウバヤジッドのホテルへの途中、トルコが国になる前に、この辺にあった小さな王国の遺跡、イサクパサ宮殿を見ました",○トルコに入ってから、町の中では警察が、それ以外は軍隊が我々の前後に護衛として守る事になります。 クルド人の問題で、危険度が高いからという事でした",○イサクパサ宮殿でも、写真を撮りに階段を上がろうとすると、兵隊がサッと私を追い越して、銃を構えて、偵察をします。 下りるときも又・・・  すごい緊張感でした",○ドウバヤジットの町、ホテル周辺です。 ここはクルド人の町、トルコは今回の旅行した国の中では、一番開けた文明国でした。トルコのパンはどこもすごく美味しいんですが、ドウバヤジットのパンは忘れられません",○このあと、カッパドキアまでの間、軍隊と警察のクルマが、私たちのバスの前後を、一緒に走りました。 警護の人たちの昼食は、こちらの費用でまかなったらしいのですが、二村氏の話では、昼食時になると、どういう訳かいつもよりグッと人数が増える、といって笑っていました",○エルズルムという小さな町で、町の観光を兼ねて昼食。 ここの子供たちも、大変素朴で、学校の前を通りかかったら、門や塀、それに教室の窓からも沢山の生徒たちが、身体を乗り出して私たちを見ていました。野菜と果物のみずみずしさと美味しさ、それに大きさは特筆ものでした。 キャベツなんか直径40センチ以上もあり、重さは日本のものの3〜4倍はあると思います。 美味しさもそのくらい違うような気がします",○エルズルム チフテ・ミナー・メドレッセの逸話(写真のコメントを参考)は、たしかドイツ、ローテンブルグの観光の時にどこかの教会で、全く同じ説明を聞きました。 ですから、たぶんフィクションだと思われます",○雪の中をエルジンジャンへ向けて出発、途中の雪景色は素晴らしかったです",○トルコはすでに話したとおり、モンゴル地方からの騎馬民族突蕨(とっけつ)が先祖。 それも波状になって遠征してきています。 最初に13世紀に来たセルジュクトルコは、トルコの東よりに勢力を張り、独特な模様の建築物を造っています",○オスマントルコは14世紀頃に勢力を増し、イスタンブールのビザンチン帝国を破り、最初はイスタンブールの少し東南よりのプルサという町に都を定めますが、のちにイスタンブールで大繁栄、つい最近トルコの国が出来るまで存在していました",○エルジンジャンで宿泊 朝の散策",○エルジンジャン〜シバス アナトリア高原に入りました。 景色も変わってきます",○雪山を越えると高度も大分下がってきましたが、まだ1000メートル前後はある広大な高原です",○シバスはかなりにぎやかな町で、旧市街もあり13〜15世紀の、セルジュクトルコの建築物が多く残っています。 町の散策をしました",○シバス 朝の散歩では、色々なお店の人から声をかけられ、お茶を飲まないかと誘われましたが。、出発の時間が迫っていて残念でしたついにカッパドキア 一般のトルコへのツアーなら必ず、観光する町、カッパドキアに入ります",○今まで、日本人はもとより、殆ど旅行者と会いませんでした。 お昼頃到着し、洞窟レストランへ入ったとたん、日本人の団体がウジャウジャ・・・",○なにか山頂の静かなところから、下へおりてきて町の中へ入ったような感じでした。ドウバヤジットから金魚の糞のように着いてきた、軍隊もここでお別れです。 有名な景色が沢山ありま",○陽性の煙突",○",○",○コンヤへ スルタンハーニーはラクダのキャラバンサライ(隊商宿)の大きなもので、宿泊施設の他に商店などもあったようです",○コンヤはセルジュクトルコの第2の首都だったところ。 それと踊る宗教の始祖とも言われる、メブラーナの廟があります。 クルクル回る踊りだそうで、それを見る予定だったのですが、急に中止になったとかで、残念でした",○イスラム教はその人たちの、生活のうちの全てに影響を与えます。 従って、どこでもメドレッセ(神学校)があります。 15〜7世紀の遺跡のようなものでも、現役として使われたりしています。 踊るというよりも、クルクル回転するのが殆どみたいです",○ここへ1泊して、観光旅行のメッカパムッカレに向かいます",○アナトリア高原の風景です。
雄大でゆったりしています",ローマ時代(BC1〜AD3世紀)、とビザンチン(東ローマ=AD5〜14)時代の遺跡があり、当時から温泉が利用されていたようです。 写真は撮らなかったけど、大きな池のような湯船で、水着姿で沢山の人が入っていました。 その湯船の中に遺跡の崩れたものが沢山転がって",○今までと違って、このあたりからローマ(西洋史)の遺跡に変わってきます",○温泉が出ていて、その成分が堆積して石灰棚を形成、独特な地形を生み出している所です",○石灰棚",○",○エフェソスへ 聖母マリア晩年の家 12年間、聖ヨハネスとともにこの地で晩年を過ごしました",○聖母マリア記念の教会",○エフェソスはローマ時代の素晴らしい遺跡です",○昔は海がもっと近くまで来ていて、メイン道路をおりて行くとそのまま海へ出たそうで",○大きなローマ遺跡へはいると、もうそこから 出たくなくなってしまいます。 劇場跡で観客席へ座っていたり、闘牛場、 フォーラム、市場、公衆浴場、神殿・・・ もう、あちこちへいっては、そこでボケーッと したり・・・・",○一日中いてもいいと思います。 当時の色々な事が頭の中に、想像として涌いて 来ます。 遺跡巡りの神髄だと思います",○社交場である公衆トイレ",○音響効果抜群の円形劇場、舞台で普通の声を出しているだけで、一番遠くの観客席でも良く聞こえます。 今でも現役として使われていますエーゲ海の港町イスミール、ここで連泊という事で、たまたますぐ傍に、ギリシャの島サモス島がある、という事を聞き、そこへ日帰り旅行をすることに・・・",○後で聞いた事でしたが、シーズンオフで、1週間に1便のみで、海が荒れたら1週間足止めにされるところだったそうです",○海の中で国境を越えるため、その境界線で、船に翻る国旗がトルコからギリシャに換えられました。 乗船の前に税関とイミグレを通り、下船時に入国審査も受けます。 そのギリシャのイミグレで、私だけ一人別室に連れて行かれそうになりました",○リーダーが必死に同じグループであることをアピールしたのですが、なかなか納得されず 30分ぐらい抗議してやっと解放されました。 行く前にトルコの名前の入った帽子を買い、かぶっていったのですが、どうやらこれが原因だったようでした",○いよいよオスマントルコの領域に入りますが、 その前に、もう一つローマの遺跡です。 山の上に冠のように、出来た王国。 ペルガモンの遺跡 BC4世紀アレクサンダーの死で分割されたアナトリアで最盛期には学問、経済、芸術、文化の花咲く都として栄えました",○BC133年、跡継ぎに恵まれず、攻められたわけでもないのに、ローマに国を譲ってしまうのですが、作りそのものはローマのものと全く同じです。 写真がないのですが、円形劇場は山の急な傾斜を利用、その上断崖絶壁に面しているので、観客席を歩くのもすごく怖い",○",○",○療養所の遺跡  円形劇場",○プルサ オスマントルコの王様の墓",○",○イスタンブール  シルクロードの始点、中国の西安から始まった”55日間シルクロードバスの旅14000q”の最終地イスタンブールへついに来ました。 ボスポラス海峡を越える橋をわたると、アジアからヨーロッパにはいることになります。 このときのバスの中は、全員が感極まって、大変な騒ぎでした。 車内は鬼太郎の”シルクロード”が静かに流れていました"イスタンブール到着、ホテルで荷物を降ろして、オスマン軍楽隊の演奏を聴きに・・ これは素晴らしいものでした",○",○ホテルと市内観光です",○ブルーモスク",○地下宮殿",○アヤソフィア",○アヤソフィア内部",○イスタンブール トプカプ宮殿の宝物殿  そのもの自身についてあまり私は興味ないのですが・・・・ これがシルクロードを津割ってきたということが、私にこの旅行に参加する原因となったのでした",○イスタンブール トプカプ宮殿の宝物殿  そのもの自身についてあまり私は興味ないのですが・・・・ これがシルクロードを津割ってきたということが、私にこの旅行に参加する原因となったのでした",○",○打ち上げパーティです",○隣で結婚式をやっていて、参加させて貰いました",○最後の観光 ボスポラス海峡クルーズです",○",○",○どうも見ていただきありがとうございました"       ,,,,,,,,,,


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